俺が初めてその彼女を見たのは初夏の夜も更けてきた頃だった。
普段より長くて厳しかった練習も終わり、満身創痍な俺は帰路についていた。
いつもと同じように帰るはずであったがその日だけは違っていた。
いつもと同じはずの道路の隅に女性が下を向いて蹲っていたのだ。

「大丈夫ですか?」
「…あ?」

ふと俺に向けられた酷く紅潮した顔とその独特の匂いから彼女がアルコールを摂取していることは明瞭だった。
高校生でありまだ飲酒を経験していない俺はこのドギツイ匂いに少し顔を顰めてしまったが、声を掛けてしまった以上引き返す訳にもいかなかった。

「…送っていきましょうか?」
「いいよ」

彼女はフラフラと立ち上がると近くの公園に入り、ベンチに腰掛けた。
彼女の履いているパンプスが地面と擦れて鈍い音を立てていた。
俺はその後を追って彼女の隣に腰掛けた。

「君の名前は何ていうんだい?」
「か、筧駿です」
「筧くんか」
「はい」
「筧くんは人に振られたことはあるかい?」
「…は?」
「人に振られるのは悲しいことだよ。まるで自分の居場所をなくしたみたいなんだ」
「…」
「昨日までは美しいと思っていたこの夜空だって、今ではこんなに憎くて仕方が無いんだよ」

彼女はふっ、と笑って言った。
手を夜空に向けて広げた彼女は、指の隙間から星を見ていた。

「筧くん。一生この人と添い遂げられると思った人としかお付き合いをしてはいけないよ。そうでないと私みたいな惨めな姿を晒すことになるよ。ま、斯く言う私も最初はそう思っていたんだけどね・・・選別能力が足りなかったみたいだ」

ははは、と彼女は自虐的に笑った。
その目は閉じていた。
俺は彼女に何も言えず、ただ沈黙が流れていた。
帰るタイミングも失い、ただ夜空に散らばる星空を見つめていた。
彼女に掛ける言葉が見つからず茫然としている様はまるでこの暗闇に置いて行かれたような感覚であった。
互いに無言であったけれど、不思議とそれが苦痛ではなかった。

「お前はつまらない人間だと言われたよ。一緒にいてもつまらないから別れるんだそうだ、酷いものだと思わないかい?」

くつくつと彼女はやはり自虐的に笑った。
その笑顔が似合っていて、自分が息を飲むのがわかった。

「研究室でフラスコとにらめっこしている私を見てもうダメだと思ったらしい。私の好きなことをして何が悪いというんだろうかねえ」
「あなたは、悪くない…と思います…」

どこかで聞いたことがある。
人間は何かを否定されると全て否定されたような気になってしまう。
だから誰かが肯定してあげないと人間は壊れてしまうんだ、って。
彼女は一番愛していた人に否定されてしまったから、今は俺が肯定してあげないと壊れてしまうのかもしれない。
名前も知らない彼女の肩に両手を置き、唖然としている彼女と面を合わせて目を合わせた。

「…君は面白いね」
「は?」
「普通見ず知らずの女にここまでフォローなんてしないだろう?」
「そうです、よね…」

確かに俺は何をしているんだろう。
自分の行動に自信が持てなくなり、彼女に触れていた手を力なく下ろした。
あははと彼女は笑っていた。

「いやいいんだ助かったよ。ありがとう」

彼女はスッとベンチから立ち上がった。
その姿はさっきとは打って変わり、どこか凛としていた。
きっと本来の彼女はこんな感じなんだろうとふと思った。

「本当に好きだったんだ、でもきっと縁がなかったんだろうね。筧君のおかげで立ち直れそうだ。感謝してるよ」
「それはよかったです…」
「酔いも覚めてきたみたいだし私は帰ることにするよ。筧君も早くお家に帰るんだぞ」

俺は立ち上がって荷物を肩にかけた。
彼女も女性にしては背が高い方だが、やはり俺の方が幾ばくか目線が高いので自然と彼女を見下す形になってしまった。

「筧君は背が高いんだねえ。何かスポーツをやっているのかい?」
「アメフトをやってます」
「奇遇だね、私の弟もアメフトをしているんだ。理系馬鹿の私と違って読書の虫をやっているがね」
「そうなんですか。凄い偶然ですね」
「私もそう思うよ」

彼女はブランコに乗り、立ちこぎをし始めた。
俺より年上の女が何をやっているんだ…

「それでは私は帰ることにしようかな」

ブランコから飛び降りて彼女は言った。
飛び降りた衝撃で彼女のパンプスがカツンと高い音を立てた。

「なぜか筧君にはまた会う気がする。縁があったらまた会おう」

彼女はにやりと笑ってそう予言を残すと、公園を出て去って行った。
俺はただその姿を見つめていることしか出来なかった。
不思議な人だった。
何処か浮世離れした魅力のある人だった。
名も知らぬ彼女の姿が網膜に張り付いていた。
彼女が本田鷹の姉であり、クリスマスボウルで彼女の予言が的中することを俺はまだ知らずにいた。
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