十一
買った本をバッグに入れ書店を出た瞬間に、肌に湿気た空気が張り付く。咄嗟にバッグの中を探って傘の柄を探すものの、それらしい感覚は見つからない。しまった、と思ったのとほぼ同時に、地面に水玉模様が出来始めた。見上げてみれば、空は一面灰色に染まっている。しばらく雨はあがりそうになかった。
数時間前。今日の昼間はさしたる仕事もなく、それならば少し息抜きがてら街を探検してみればいい、と近藤さんに勧められた。
お言葉に甘えて、本屋にでも言って時間を潰そうと、天気予報も確認せずにどうせ大丈夫と高を括って無防備で来たのが仇となった。
前から欲しかった本をようやく買うことが出来て、意気揚々と帰ろうとした矢先にこれだ。書店帰りとなれば、ビニール袋に入っているとはいえ、出来るだけバッグを濡らしたくはない。と、考えるうちにもますます雨の勢いは増していって、いよいよ徒歩では帰れない気配となってきた。
なすすべもなく、書店の軒先で雨があがるのを待つ。雨が降り始めてから人通りもまばらになって、そこらを行ったり来たりする車の数が増えてきた。
「なんで傘なんか忘れたんだろ……」
目の前を傘をさして往来する自転車や歩行者たちの姿に自分の愚かさを恨んでも、手元に都合よく傘が現れるわけもなく。その上こんな日に限って、普段なら散々目にするタクシーも現れず。
時間は刻一刻と過ぎていくものの、肝心の雨空は回復の兆しも見せない。というかむしろその勢いを増している気さえするような。この際、もう本を無駄にする覚悟で、雨の中をつっきって帰ろうか。
ああ、雨が弱いうちに帰っておけばよかった。心の中で嘆きつつ、バッグを頭上に掲げて、意を決して雲の下へ飛び出した。
──おい。名前!
「だ、誰?」
不意に聞こえてきた、雨音のノイズの中から私の名前を呼ぶ声。振り返るとそこには──
「土方さん!」
ハザードランプをつけた黒の車両から、土方さんが身を乗り出して私を手招きする。駆け寄っていくと、土方さんは助手席のほうを指さした。
「何突っ立ってんだ。ほら、さっさと乗れ」
「でも……仕事中、じゃないんですか?」
「用事済ませて戻る途中だから気にすんな──そのままだと濡れるだろうが。いいから早く」
「す、すみません……じゃあ、失礼します……!」
言われるがまま、対向車線から車が来ないうちに、急いで助手席に乗り込む。
私がシートベルトを締めたのを確認して、土方さんは車を発進させた。
少しの間とはいえ雨に降られて身体が冷えていたので、外気とは遮断された暖かさが心地いい。当然警察車両にはCDプレーヤーなどついているはずがなく、車内にはまた勢いを増したような気がする雨音だけが流れている。
「あの……本当ありがとうございました。傘、うっかり忘れちゃってて」
「外出るんなら折りたたみ傘くらい持ってけ。……ったく、この辺通って正解だった」
「きょ、恐縮です……ギリギリ走れば何とかなるかも、なんて思ったんですけど……ハハハ」
何とかなるかバカ、と隣から呆れたようなため息が聞こえて、もう一度私は恐縮ですと肩を竦めた。そして土方さんは前を向いたまま、言いづらそうに頭をかく。
「……第一、お前に風邪でも引かれたら困るだろ」
目を伏せたまま投げつけられた突然の優しい言葉に、思わずえ?と聞き返しそうになった。そんな風に言われては、その言葉の意味を都合よく解釈したくなってしまう。動揺しているのを悟られないように、視線を窓の外の町並みへと移す。
「……バカは風邪ひかないって言いますし、大丈夫ですよ、どうせ」
「何急に拗ねてんだお前」
「さっき土方さんがバカって言ったんじゃないですか、もう」
「……子供みてーなこと言いやがって」
こんなに言われるならお前なんて乗せるじゃなかったよ、と冗談交じりに土方さんは笑った。普段あまり笑わない横顔が珍しく綻びたので、私もつられて頬が緩んだ。
二人でたわいのない話を続けるうち、気づけば、車は屯所の目の前にまで戻ってきていた。もうそろそろ着きますね、と言うと、土方さんは、今度からは折りたたみ傘も持ってけよ、と念を押した。
──もしまた傘を忘れたら、今日みたいに送ってくれたり……しませんよね。
土方さんの念押しに、わかってますってと答えながら、不本意にも浮かんでしまった不埒な質問を心から消去する。しかし、そんな私の心を知ってか知らずか、土方さんは言葉を続けた。
「あー、つーかよ……なんだその、こういうのは別にいつでも付き合うからよ」
「はい。……はい?」
いや、休みの時だけだけどな?土方さんは私と反対の方向に目を逸らして言う。その表情と真意とは読み取れない。
「いい、んですか……?」
「だから今言ったろ」
そうですか、そうですよね、と一人ぶつぶつ繰り返す。でもそれってデートとかそういう類のものなんじゃ、と思ってから、そうか都会の人にとってはデートなんて交際してなくてもするものなのかと納得する。前観たドラマでも別に付き合ってなくてもデートしてたもんね。
思いがけず訪れた突然の意外な人からのお誘いに、私はただ狼狽えることしかできなかった。
これから数日後、本当に二人で出かけることになるのだが、それはまた別のお話。