(雑記補足返信)
 0226 三日月宗近は美しい刀だ。
とうらぶ映画、三日月宗近への感想。ふせったーにも上げてたやつ。



三日月宗近は美しい刀だ。

刀の価値とはどこに置かれるものか。
天下五剣と呼ばれる五振の刀たちは、いずれも名刀と評される刀である。ところで、天下五剣が一振りである三日月宗近の在り方は、他の四振とは異なるように思えた。他の四振りが霊刀や破邪の刀としての逸話を持つのに対し、三日月宗近は刀としてのそれらしき逸話を持たない。天下五剣で“最も美しい”とされる――美しさを評され、名だたる刀に数えられた一振なのである。
それ故に。三日月宗近の価値は、美しさに重きが置かれているものと私は認識していた。三日月宗近にとって、自身の美しさは一つのアイデンティティだと考えていたのだ。

では、刀剣乱舞において、三日月宗近の美しさはどう表現されるか。
(これは私が、ある程度二次創作を嗜んでいることも影響しているのだろうが、)分かりやすく先行してあるのが、その美貌だと思っている。顔だ、顔がいい。
顔さえ良ければ三日月宗近だ! なんて極端なことは言わないが、顔の良さは外せないものだと認識していたし、その美貌をもって人々を魅了するなど、いかにも“らしい”ではないか。美貌をカリスマや妖しさに結び付ける描写は嫌いではなかったし、支配者や君臨者的ポジションにいる存在、いわゆる「ラスボスおじいちゃん」も三日月宗近と認めていた。
一方で私が、顔だけでなく、生き様や在り方までも美しくある三日月宗近に焦がれていたのも事実だ。私の趣向はそういう風にできている。なんなら、自身が「三日月宗近」であるために、美しくあることに固執する、なんてものも欲しかった。三日月宗近という刀剣男士に、そういう存在であってほしいという願いを抱いていた。

さて、『映画刀剣乱舞』の三日月宗近である。
それはしめやかな衝撃だった。三次元でここまで二次元的に現実離れした、卒のない美しい動きある画が撮れるのか、と。剣を振り回すような殺陣は、戦隊もののバトルシーンで慣れていたからこそ、長い袖丈が腕の動きに伴い広がりを見せる様や、納刀時の動作は見慣れず新鮮だった。座る、立つ、歩く。そんな単純な動作ひとつとっても、洗練されているように見えて、三日月宗近という存在の美しさをまざまざと見せつけられた。
おっと、忘れてはいけない。もちろん顔はいい。というか、至近距離の画が多い。あれだけ多いのに、鑑賞に耐え得るとはどういうことだ。凄い。
目元のアップ画がやけに記憶に焼き付いている。人の眼とは、これほどまでにものを語るものだったか。
他霊長類にはないヒトの白眼は、何故あるのかという話で、白眼の部分はヒトの視線の向きを表すのに一役買っていて、意識表示や意思疎通を行うのに有効なのだとどこかで聞いたのを思い出した。人の身を有効活用し過ぎだろう三日月宗近。ものすごくよく目が動く。穏やかにも、鋭くも。そんなところに感心した。
最も心を掴まれたのは、その在り方だ。一人で抱え込み、表面上は穏やかで。追い詰められても、さいごまで余裕の姿勢を崩さない。それは私の、三日月宗近の在り方への願いであったし、私のド好みな性癖というやつだった。

あの気持ちを、映画の三日月宗近への感想を、どう言い表そうか。身も蓋もない言い方をすると、「顔だけじゃない三日月宗近がいて嬉しかった」なんて言葉になってしまうのだろうが。
あれは私の三日月宗近だった。私の信じる三日月宗近が、想像を超えた形になって映像で観られた。

三日月宗近は美しい刀だ。
『映画刀剣乱舞』は、それを私に再認識させてくれたように思う。観てよかった、観られてよかった。

雑記
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