黒服としての仕事
すらりとした体躯の影が夏候覇と伊智子を覆う。
声の主、鐘会はフンと鼻を鳴らして大いに不服そうな雰囲気をかもしだしていた。
「あ…ごめんなさい」
ただでさえ狭い階段に二人で隣同士に座っているため、確かに進路をふさいでしまっていたようだ。
伊智子は素直に謝り腰を上げる。そのまま夏候覇の正面へと移動して、鐘会が通るスペースを作った。
「ふん」
鐘会はクリニックで働く医師で、夏候覇と同じくらいの時期に入社した。
にも関わらず、その女性受けしそうな容姿からか多くの固定客を持ち、売上順位はなかなかの位置に食い込んでいる。
本人曰く一流大学を卒業し、この職場でも良い数字を残していて、顔も良い。
ただひとつ玉に瑕なのがその性格。
伊智子は、顔を合わすたびにこちらを馬鹿にするようなことを一言二言吐き捨てては去っていく鐘会のことが少し苦手だった。
「…夏候覇。先日の失態は見事なものだったな。薄暗いここで蹲るのがお似合いだよ」
階段を通りたかったのならさっさと通ればいいのに、やっぱり誰にでも文句を言わないと気がすまないらしい。
伊智子は、「石田さんとはちょっと違うタイプでいやな人だよね」とこっそり思った。
わざわざ夏候覇の座っている段より数段上からそう吐き捨てて、意地の悪い顔をして言った。
「…いやいやいや。鐘会。喧嘩売ってる?もしそうだとしたら買うよ?俺」
それに黙っていられないのも夏候覇の性格だった。
口元こそ笑っているがその目元と声には静かな怒りが含まれている。
立ち上がった夏候覇は上目遣いで鐘会のことをキッと睨んだ。
「…あまり顔を近づけないでくれ…ああ、背が違いすぎて目線も合わせられないか」
もともとある身長差に、階段の差もプラスされて大分開いた目線の差に、夏候覇はカッと顔を赤くした。
相変わらず指を髪の毛に巻きつけながらタルそうに言うその姿に我慢できなくなったのか、夏候覇が大きく口を開いて文句を言おうとしたその瞬間だった
「んだと!?てか、ちゃらちゃら髪の毛いじってんじゃ…あ…?鐘会、なんだ?それ……」
夏候覇の視線がある一点で止まる。つり上がった眉が下がり、代わりに目をこれでもかというくらいかっ開いた。
そろそろと指差した場所は鐘会が今髪の毛をいじっているその指だった。
伊智子も夏候覇の視線の先に気づいた。
鐘会の白く長いその指に、この距離からも分かるくらいの、一筋の切り傷ができていた。
「指…どうしたんですか…?」
伊智子はおそるおそる聞いた。
夏候覇と伊智子の視線に気づいたのか、鐘会は指を隠すようにその手を背中の後ろに隠した。
「…育ちの悪い女にやられたんだ」
鐘会の目が「めんどうくさいやつに気づかれた」と語っていた。
「…?お客様ですか?」
「……」
鐘会は口を閉じ、気まずそうに目を逸らした。
それは暗に図星を示していた。
顔色の変わった夏候覇が鐘会に詰め寄る。
「なぜそれをはやく言わないんだよ!!!」
「っ!耳元でどなるな!うるさい!ただのすり傷だよ。この程度の傷、別にどうってことはない」
うっとうしそうに顔を背ける鐘会にめげず、夏候覇は隠された手をとって眼前に引っ張り出した。
鮮やかな赤い筋が痛々しい。伊智子は思わず眉をひそめた。
「どうってことないわけないだろ!次回はもっとエスカレートしたらどうするんだ!ごまかせないくらいひどい怪我になるかもしれないんだぞ」
夏候覇はまるで自分が怪我をしたかのような悲痛な声で叫んだ。
その勢いに圧倒された鐘会は、返す言葉もないのか黙ったままだった。
「………」
「……客の悪口を言うつもりはないけどさ。お前の客、ちょっと性格やばそうな女多いぞ」
夏候覇がいう「やばそうな女」には伊智子にも心当たりがあった。
受付や黒服に対する態度はごく普通の女性なのに、何故か鐘会に対する時だけ行動がおかしいのだ。
蘭丸から聞いた話だが、原稿用紙ウン十枚ほどのぶ厚いラブレターをもらったり、怪しい自撮り写真を見せつけられていたり、何故か知らないうちに探知機付きの首輪を付けられていたりしていたらしい。この首輪が全くとれなくて、正則が超頑張ってようやくぶち壊していたそうな。
なにそれ怖い。
そんな感じで鐘会に接し、時間が過ぎればなにごともなく帰っていく。
それが一人や二人ではなく、決まって鐘会を指名する女性のほとんどがそうだった。
自覚があるのかないのか鐘会は否定しなかったが、怒られた子供のように唇をとがらせた。
「…うるさいな。あんたに関係ないだろ。客は客だ。金を落とすのに変わりないだろ」
「関係あるよ。俺たちはあんた達を守るためにいるんだから。いくら金を払っていたって迷惑を被ったらもうそれは客じゃない」
間髪いれずに真剣な表情でそう言った夏候覇は、そのまま伊智子のほうへ向き直った。
「伊智子。しばらく鐘会は「伊」と「呂」だけで対応することをあとで三成殿に相談してみてくれないか」
「なっ―勝手なことを言うな!」
「波」を封じられれば売上げはガクンと下がるだろう。
それを危惧したのか少し焦りながら反論した鐘会に、夏候覇はキッと眉の角度を強くして目線をそちらに戻した。
「このあいだの終礼で李典殿も言っていただろ。波で個室に入られると俺らは手出しができないんだ。鐘会、お前が俺らに逐一状況を報告してくれれば問題ないけど、お前って口ばっかりで意外とどんくさいからな。そんな隙作れないだろ。だから機会そのものを潰して自衛する。そうじゃなきゃ最悪の時、俺たちはお前を守れない」
薄暗い階段の下で、夏候覇のきらきらした大きな瞳が鐘会を強く見つめてそう言った。
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