蟻地獄という生物をご存知だろうか。砂地などの場所にすり鉢状の巣を掘る生物で、その巣穴の中に潜み、アリが足を踏み入れると砂は崩れ出し、落ちて来たアリを捕食する。その砂で出来た巣は崩れないぎりぎりの角度に作られているとの事。そしてその角度にも工学的に名前があるらしい。
「うぃー、みんなおはよーさーん」
仕事開始15分前に坂田さんが出勤する。皆が「おはようございます‼」と挨拶を返す。無論、私も。15分前にも関わらず、この部署では坂田さんより後に入ってくる者はほぼ居ない。しかし彼が社長出勤なわけではないのだ。もちろん社長ではないのだけど。彼はここの課長であり、皆からの尊敬の念も多い。それは故に課長の職のみならず、部下の相談役やお兄さん的存在も担っているからだ。
しかし私は坂田さんがよく分からないでいる。ある事がきっかけだったのだが…
「どうしてこんなしょうもないミスをするんだ‼」
「すいません…私の確認不足です」
いつもはこんなミスなんてしない。ミスをしたのには理由があるんだ。取引先との発注ミスをしてしまい、部長に怒鳴られる。きちんと取引先には謝罪している。向こうも「なんとかなるから大丈夫ですよ」と言ってくれたのに、この人の虫の居所が悪いのか事後報告をするつもりで来たのにこの有様だ。こんな、みんなの前で怒鳴らなくたっていいじゃない。ミスをした自分への落ち度と、「向こうも大丈夫って言ってくれたんだからいいじゃない!」とは口が裂けても言えない悔しさから涙がうっすら顔を出した事に気づく。
周りが「あそこまで言わなくてもいいのにねー」と私に同情する声が小さく聴こえた。
「おい‼聞いてんのか‼」
と喝を入れられた時だった。
「もうその辺でやめてやったらどうです?」
私の右隣にヤル気のない目をした坂田さんが立っていた。
「向こうもいいって言ってくれてんすからもういいでしょう。あんまカッカし過ぎると頭またハゲますよ?」
周りからクスクスとした笑い声が聞こえる。
「坂田っ‼」
「はいはい、お叱りは後で俺がきっちり受けますからひとまずこの子は解放してやって下さい」
誰も坂田さんには太刀打ち出来ない。結果が全てなのだ。営業実績においても、人望の厚さにおいても、ハゲ部長は坂田さんには勝てない。だから私を説教中に連れ去ったとて、返り討ちに合う事もないのだ。
「おいで」と私を招く坂田さんは歩き出した。私はお怒り顔の上司に一礼し、「本当にすいませんでした。…失礼します」と告げ、坂田さんの後を追った。
またハゲが悪化するだろう。目の前にあった顔は私への怒りと、坂田さんから受けた辱しめで真っ赤だった。
坂田さんは速度を緩める事なく、会議室に入って行った。私も続けて会議室に入る。今日この時間帯には会議は無かった様だ。シンとした空気が私と坂田さんを包む。部屋の真ん中辺りまで進んだ彼は、私に目で「ここに座りなさい」と合図を出した。私はそれを理解した。
「…失礼します」
私が座った事を確認すると、ポケットに入れていた手を出し、真向かいの椅子の背もたれ側に体の正面が来る様にして座った。
「朝からやられたな。ぱっつあんから事情は聞いたぜ?珍しいじゃないの」
「すいません…」
坂田さんの目を見れずにいる私。だって涙が溢れそうなんだもの。
「何かあった?銀さんで良ければ話聞きますよー?」
私の変化に気づいてくれたのはあの日から遡っても坂田さんだけだった。もちろん、会社にも迷惑かけないようにいつも通りの私を演じたのだけど。
「…実は3年付き合ってた彼とこの前…別れたんです。彼の浮気が原因で…」
思い出すだけで涙が出てきた。結婚だって視野に入れていたのに。結婚情報誌なんて買って浮かれてた自分がバカみたい。こんな裏切られ方するなんて…
自分の膝を見ながら告白した。前なんて向けない。下を向いているので重力に従って涙が落ちていく。
「…ごめんなさい、公私混合するタイプじゃないと思っていたんですけど…」
「うおっ⁉ちょ、ちょっタンマ⁉なんか拭くもん、拭くもん」
子供の様にわんわん泣きだした私に、坂田さんは慌てている。「えー⁉なんかあったか⁉」なんて言いながら周りを見回したり、ジャケットやズボンのポケットの中を探っていた。
結局何も見つからなかったのだろう。坂田さんは自分が着ていたワイシャツの袖部分で涙を拭ってくれた。柔軟剤だろうか。何か甘い綿菓子の様な匂いがした。
「よしよし、もう泣きなさんな。化粧が崩れるぞ」
今日はウォータープルーフで良かったなんて一瞬思った。吸い上げる様に優しく坂田さんは涙を拭き取った。
「ごめんなさい…シャツ…」
「どーって事ねぇよ。それより」
坂田さんは何かを言いかけて、じっと私の顔を見る。よくよく考えれば会議室に二人っきりで、しかもこんな至近距離。他の誰かに見つかったら絶対に勘違いされるわ。今になってこんな状況に居る事に緊張を覚えた。
「…何ですか?」
「こんな俺好みの可愛くて性格も良い子を泣かす奴がいるんだな」
「え?」
坂田さんはこの大きく広い会議用テーブルに肘をつきながらそう言った。
「俺だったらそんな顔はさせねーけど」
急に何だろう?あ、そうか、きっと坂田さんは私を元気付けているんだわ。そう思うと「ふふっ」と自然に笑顔がでた。
「ありがとうございます、坂田さん。そうですよねっ‼可愛くしないと次の恋なんてやってきませんもんねっ」
その言葉を聞いた坂田さんは一瞬キョトンとした表情をしたが、すぐにいつものお調子者の顔に戻り「そーそー、その調子。今度会社の飲み会があるらしいからパーっと騒いでそんな男忘れちまえ」と、面白おかしく言った。
と言う、出来事があった。その事を「こんな優しい上司が居るの」と、別の会社に勤めている親友に話したら
「あんたバカじゃないの?」
と、呆れた顔と言葉が返ってきた。「あんたそれ口説かれてんじゃん」と、続けて思ってもみなかった事を言われる。
「だから天然は困るわー」
口説く?こんな私を?いや、あの坂田さんが?
「そんなんだから浮気されるんだよ。いい?じゃあんたが坂田さんで、ハゲに怒られてんのがアンガールズのタナカだったら、あんた助ける?」
「助けない…かな?」
その前にさらりと傷付く事言われたのが気になる。
「でしょ?じゃ、ケントだったらどーする?」
「ケント?」
「山崎ケント‼あー、もうホント可愛い‼」
最近この子は山崎ケントに夢中だ。そういうばラインのプロフィール画像もケントだった気がする。
「ケントだったら…助ける」
「なんでよ?」
「可愛いから」
「でしょ⁉それと一緒」
自分の家の如く、勝手に冷蔵庫を開ける彼女。手には缶ビールが握られている。
「でもそれ極端過ぎない?」
殆ど皆同じ考えだと思う。タナカとケントじゃそりゃそうなると思うんだけど。部下を助けるのは上司の務めではないだろうか。
「でも結局はそーゆー事でしょ。まして、俺の好みとか言われてんだからさ」
彼女は立膝を立てビールを飲む。いつもこんなだからすぐダウンしちゃうのよ。男にはこんな女の現状なんて見せられない。と、この子と呑む度に思う。
「坂田さん、絶対あんたの事気に入ってるよ」
彼女にそんな事を言われてから、やけに坂田さんを意識しだしてしまった。もちろんかっこいい人である認識はあったのだが、私にも彼氏が居たし、そんな目で見ていなかった。よくよく観察してみれば、パソコンや会議の時にだけかけるメガネ姿もかっこいい。また別の日には他の女性社員が持っていた大きな段ボールもひょいと抱えて運んであげていた。ワイシャツごしでも鍛えられている体だとすぐ分かった。最近は坂田さんを見る度に胸がドクンドクンといいだした。あー、こんなに意識するならあんな事があったなんて話さなければ良かった。仕事が手につかない。
「あ、ねぇ。昨日取引先に行ったでしょ?向こうの担当者が確認したい事があるからって受付から内線来てるよ。1階のロビーにもういるって」
「わっ、急だなー。分かった。すぐに降りるからそのまま待ってる様に伝えてもらっていい?」
手でOKサインを作った同僚は受付の子であろう、電話の相手に「今からすぐ向かう様なのでそのままお待ちになる様にとお伝え下さい」と話した。その言葉を聞いて同僚に行ってくるね≠ニ口パクで伝えて、エレベーターに向かう。
チン、と開いた鉄の箱の中には誰も乗っていなかった。私の勤める会社のビルにはいくつかの企業が入っている。その為高層な作りだ。自分が今いる20階から1階のボタンを押す。扉が閉まり、動き出したエレベーターだったが、すぐ下の19階で止まってしまった。この19階も私が勤める会社が入っている階だ。
チン
開いた扉から乗って来たのは、坂田さんだった。
「よっ、お疲れさん」
「お、お、お疲れ様です…」
突然の出現にスムーズに言葉が出てこなかった。「なにビビってんの?」と坂田さんは小さく笑った。「す、すいません」と返すと私はエレベーターのたくさんのボタンと向かい合わせになった。静かに扉が閉まる。あぁ、誰も乗ってこないなんて…早く1階に着いて。
そう思った時に、坂田さんの行きたい階数聞いてなかった、と思い出した。何階だろうか。ボタンに手を添え、前を向いたまま「坂田さんは何階ですか?」と話し終わる前に、私の右側からスッと甘い匂いを纏った長い坂田さんの腕が現れ、2階のボタンを押した。
坂田さんはボタンを押した後も体勢を変えない。ボタンを押したその手はそのままずれてボタン側の壁にそっと場所移動した。
私は今、後ろから包まれる様な立ち位置にいる事に動揺を隠せないでいる。振り向けばすぐ近くに坂田さんの顔がある事くらい、簡単に想像がつく。
「あ、あの…坂」
「ねぇ」
私の喋る言葉に言葉を被せてきた。
「まだ彼氏出来てない?」
小さくコクンと頷いた。坂田さんは体勢を変えようとはしない。
「この前言った事、結構本音なんだわ。俺の好みだって話」
私の視界には規則通りに色を変えていくボタンが目に入る。今、8階だ。
「耳真っ赤」
不意に触られた右側の耳に反応してしまい、振り向いてしまった。至近距離で坂田さんと目が合う。
「そうやって意識してもらえると嬉しいんだけど」
意地悪そうに笑う坂田さんから目が離せなかった。坂田さんの目は私の目からエレベーターのボタンへと移った。2階のボタンが光っている。2階に着いたのだろう。静かに開いた扉から別の社員と入れ替わる様に坂田さんは出て行く。その時、
「さっきの事検討しとくように。この間渡した書類を提出する時に一緒に返答を頼む」
坂田さんは回りくどい言い方でそう言った。他の人が聞いても怪しまれない様にしているつもりだろうか。「扉が閉まります」とエレベーターが告げた後、2階に下りた坂田さんが振り向き、
「良い返事を期待している」
と私に笑いかけ、扉は静かに閉まった。
「あ、こんにちは!お世話になります!いきなり申し訳ありません…あれ、大丈夫ですか?熱ですか?顔が赤いですけど」
1階のロビーで待っていた取引先の担当者は私の顔を見るなりそういった。
「そう…ですね、熱があるかもしれません」
蟻地獄という生物をご存知だろうか。砂地などの場所にすり鉢状の巣を掘る生物で、その巣穴の中に潜み、アリが足を踏み入れると砂は崩れ出し、落ちて来たアリを捕食する。その砂で出来た巣は崩れないぎりぎりの角度に作られているとの事。そしてその角度にも工学的に名前があるらしい。
その角度は安息角言うものだとテレビで知った。私がアリだとすれば、坂田さんが仕掛けた罠にかかり、その足場は少しづつ私を飲み込んでいくだろう。安息角が崩れ出すのも時間の問題と言う事を私はもう気付いてしまっている。
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