家の庭には、桃の木がある。 何本もの、たくさんの、桃の木が。ただその中でも、とある一本の木がとても大きくて、とてもきれいな姿態をしている。春には可憐な花蕾をつけて、繊細な花々を咲かせる。毎年ではないけれど、何年かに一度は薄紅色の実もつけると言われている。 盆栽は、鉢ひとつが箱庭の美しさをつくり上げるけれど、私にとっては、この庭そのものが盆栽だった。芸術で、風光明媚。子供のころから、ともに育ってきたこの庭の美しさには、いつも憧れを抱いていた。 生まれ育った生家にこんな庭があったことは、きっととても運が良いことだ。偶然であれ必然であれ、私はこの庭に囲まれて育ったことに、ひどく喜びを感じていた。 地を覆い尽くす、そぼ濡れた緑苔の上を裸足で歩く。十本の指の間から覗く、苔の躯体。柔らかくしっとりとした苔の絨毯に、いくつもの足跡を残していく。 ゆっくりと、確実に近づいていくのは、この先に見える一本の桃の木。何本もの木が、薄桃色の花弁を靡かせる中、その木だけには一輪の花も咲いていなかった。 今年も咲かない。 だんだんと大きくなる焦げ茶色の木。主軸となる幹から伸びる枝々には、茶色以外の何モノもない。木元まで辿り着いた私は、ぼんやりと空を仰ぐ。一瞬、空の明るさに視界が真っ白に染まったけれど、すぐに青色一色に埋め尽くされた。そのままの姿勢で見上げていれば、青々とした視界の中に、逆光で黒っぽくなった枝が見え始める。捉えた枝たちの片鱗に瞬きを落とすと、不意にどこからか飛ばされてきた花弁が頬を掠めた。 「……」 この家に生まれてから、一度として実を結んだことのない木。庭にある桃の木々は、春を過ぎた頃に薄紅色の実をつける。しかし、それらの中心に植えられているこの一本だけは、一度として実を結んだことがない。母の話でも、祖父母の話でも。この一本だけは、実を結ぶ姿を呈したことがないらしい。父から聞いた話でも、曾祖父もその前の祖父母らも、この木が花以外のモノを宿した姿を見たことがないと言っていた。 それなら一体いつになれば、この木は実りをもたらすのだろうか。それとも、実をつけない種類の木なのだろうか。 私は、襟元に張り付いた桃の花弁を摘み上げると、指先に載ったそれを吹き飛ばした。 視界の中心を舞い昇っていく薄桃色。視線だけで花弁の辿る軌跡を追いかければ、穏やかな追い風を受けたそれが再び上昇するのに気がついた。ふわりと、楕円を描いて宙を舞う花弁。掠めるように丸裸の木に止まったそれは、さわりと吹いた横風に乗って、緩慢な動きで枝幹を滑り降りていった。 「…?」 光跡を残すように、薄桃色の残像が視界に蛇行を引いていく。落ちていく花弁は更に薄い桃色となって、透明に近い色の尾を引き続けた。 スロー再生で何かの映像を鑑賞している気分に晒されるが、私の意識はそれよりも別のモノに惹かれていた。視界に映る茶色の幹を背景に、舞い落ちていく花弁がその上に薄桃色の光跡を載せていく。その後に現れるのは、常識で考えれば、茶色だけの木。けれど、花弁が過ぎ去ったこの目に映ったのは、パチンコ玉ほどの大きさをもった、薄紅色の小さな実だった。 思わぬ発見に、その場で数秒固まる。コマ送りで見えていた花弁は、すでに地面に伏している。私は、先ほどまで花も実も付けていなかったはずの木を静観すると、視界に映った薄紅色が小刻みに震え始めたことに、慌てて手を差し伸ばした。 落ちる。 思ったと同時に、垂直に落下した実。数ミリのバウンドを二度繰り返して着地したそれは、すとんと右掌に収まった。 「……、」 突如駆け上がった心拍数に、驚きを隠せない。胸板を突き破りそうな勢いで鳴り響く心臓が、喉元にせり上がってきそうだ。 咄嗟の行動とはいえ、偶然見つけた実が落ちそうになれば、反射で手を伸ばすのは当たり前だろう。私は、既のところで受け止めた実を手元に引き寄せると、じっとそれを観察した。 幾本もの桃の木が混在する庭で、唯一実をつけたことのなかった木。それが、実(じつ)はたったひとつの実をつけていて、今このとき、私の目の前で落下した。落手した実は、話に訊いていた通りの色をしている。通常の桃とは異なり、桃色というよりは紅色の強い「薄紅色」。全体が均一に着色され、通常の桃に見られる白い部分が見受けられなかった。それと、何よりの違いが、その実の大きさだ。先に表現した通り、パチンコ玉のサイズしかない。一口大ともいえないその大きさでは、一見これが桃だとは判別できない。しかし、香りや触感そのものは、なんら他の桃と変わりない。 私は、虎視していた桃の実を徐に陽光に翳すと、片目を閉じた状態で再度、それを注視した。 特段変わった様子はない。陽光を背にしたことで、逆光の黒さに染め上げられてはいるが、じっと見続けている限りでは、小さな赤い実、それだけだ。 未だに殴打を続ける鼓動にそっと手を翳す。すると、その動きに呼応したように、ふと目元の筋肉が委縮した。予期していなかった瞼のひくつきに、瞬間的な震えが全身を走り抜ける。ピクリと身震いした肩の振動は、器用にも手の先にまで伝わって、実を摘んだ指先に到達するのもほんの一瞬の出来事だった。 「…っわ」 震えた指先から、薄紅色の実が転げ落ちる。宙に放り出された球体は、なだらかな弧を描いて、真下から見上げていた私の顔面に落雷した。眉間の真ん中にヒットを決めた実は、コロコロと再び転がり落ちていく。鼻筋を通り、鼻頭を避け、ほうれい線に沿って落ちていく。そして、落ちてきた実との衝突に驚きの声を零していた私の口目掛けて、それは、ゴールした。 「……、!」 ――ごくり 聞こえた音は、体内から内耳に伝わった。 「…っか、ゲホッ」 「げほげほ、がほがほ」と凄まじい濁音を漏らしながら、目尻に涙を浮かべる。 どうしよう、喉に直接入ってきたから、そのまま思わず呑み込んじゃった。 急激に襲った食道への異物感。詰め込まれた異物と空圧の流入に、喉頭と呼吸筋が突発的な収縮運動を活発させた。しかし、奥まで入り込んだ異物を外に排出できないことを悟ると、激しくなってきていた咳も次第に収まっていった。縁辺にまで盛り上がっていた涙も、ほとりと一粒落水すれば、これ以上の貯水はなくなった。 いつの間にか両膝両手を着いていた苔の地面に、ゆくりとなく腰を降ろす。足跡以外の形跡が緑苔に捺されてしまうけれど、このときばかりは、身体を襲った倦怠感に抗うことができなかった。 仰向けの状態で、息を整える。胸を上下させ、肺を上下させ。乱れた呼吸が一定を保ち直すまで、私は青空に面して呼吸を整えた。 「…はぁ」 閉じていた目を開ければ、光に眩んだ白い世界が広がる。数秒後には、先ほどと何ら変わりない青空が広がるとわかっているが、どうしてかこの瞬間だけは、昔から好きになれなかった。太陽光に眩まされた目の中に残る、黒のような紫のような光の影が好きではなかったからかもしれない。視線をどの方向に逃がしても追いかけてくる残像に、気味の悪さを感じていたのだろう。もしくは、瞬間であっても視力を奪われることに恐怖を感じていたのかもしれない。一瞬の内でも、視力を奪われている間に何かが変わっているんじゃないかと。兎にも角にも、私は、どんなに「眩まされた後には必ず視力・視界は回復する」と理解をしていても、太陽光のもたらすこの白んだ世界が好きではなかった。 鮮明さを取り戻していく視界。霞や靄が晴れていくように、ゆっくりと全体が色彩を取り戻していった。 「……」 回復した視界が捉えるのは、変わらずに存在する真っ青な青空。そのことを確認すると、安堵のため息が口端から漏れ出た。 「はぁ…、味も何も感じなかった」 苔の上に寝転がったまま、ぱたりと両腕を広げる。布越しに感じていた苔の感触が、襟袖から覗く素手に直接触れ、妙な擽ったさを覚えた。 久しぶりに感じた高揚感。思わぬ動悸に、呼吸を取り戻すまで寝転がってしまった。苦手な太陽光に目を眩まされたりもしたけど、目を開けば、いつも通りの青空だ。大丈夫、変わらない青空が見えるだけだ。生らない筈の実が、花も咲かせずに実を生していた事実に驚いたりもしたけど、「眩まされた後には必ず視力・視界は回復する」とわかっている通り、視力を取り戻した今でも、この庭は、私は何も変わっていない。 青空から降り注ぐ直接的な明かりに、少しばかり目を細める。この庭に足を踏み入れた時からそこにあった空をもう一度仰ぎ見れば、そこに見つけた青に再度安堵した。視界の端から侵入した桃色の一枚に微笑を漏らす。そして、その一瞬の景色を瞼の裏に焼き付けるように、私は小さく瞬きをした。 だから、このときの私はこの後に起こり得る未来に、何の予感も感じていなかった。「自分が昔から感じていた嫌悪感は正しかったのだ」という事実を、幾度となく思い知らされる羽目になるなんて、このときの私は全く思っていなかった。ただただ大好きなこの庭に、心地よさと喜びを感じ、何十年何百年と、実が生ることを確認されてこなかった桃の実を、不本意ではあるが食すことができた事実と、それに対面することができた事実に、少々浮足立っていたのだ。今はもう誰もいない家屋へと戻ったら、四つの遺影にこの話を早速報告しようと、幾分気持ちが逸っていたのだ。 「…え」 だから、広がる青空から視線を降ろしたとき。変わらずに広がる青空以外が、まったく変わっていたことになんて、私は、全く気づいていなかったのだ。 桃源郷との別れ