「ルカちゃーん、一緒に行かなーい?」 「…?」 授業の終わった教室で帰り支度を整え、部活動にも参加していないルカは、ひとり帰宅の足を延ばそうとしていた。 机横に掛けられた鞄を指先で掬い、慣れた動作で席を立つ。 部活準備に勤しむ慌ただしさが目立つ教室を潜り抜けようとした、ほんの一瞬。 聞き慣れたとまではいかないが、この一年で幾度も聞いた台詞が背後から掛けられた。 自身の声よりも幾らか高音を奏でる、女の子の声。 ルカは、ちょうど教室扉の前で足を止めると、掛けられた声に立ち止まった。 「ね?今日こそ一緒に部室行ってみない?」 「…ハル、さん」 「いやだなーもう、同い年なんだから『さん』はいらないっていつも言ってるじゃん」 「…あ、ごめんなさい」 「あ、またー」 見た目は快活。 高校生らしい愛くるしさを持った女の子。 振り向いた先で見つけた予想通りの登場人物に、ルカは困ったように眉尻を下げた。 教室を出ていく数人の生徒の邪魔にならないよう、扉前に佇んでいた場所から少し横に移動する。 「それで、どう?今日こそ行ってみないかな?」 「えっと…」 「ね?一度でいいからさー、楽しいよ?絶対」 くいくいと服の袖口を掴んで、「これ買ってお願い―」と子供が母親にせがむようにルカの顔を見上げてくる。 それは、常に近寄りがたく孤高のオーラを醸し出していると噂されるルカに、唯一気兼ねなく話しかけてくる"同年代"のクラスメイトだった。 そのクラスメイト――仲津治(なかつ はる)は、名前だけ見ると男子のように思われがちなところがある。 然し、実際はその真逆。 見目から言葉遣い、細部までの所作すべてが、女の子の中の女の子を体現しているような人物だった。 「このクラスもあと一か月でおしまいだし、この一年一生懸命ルカちゃんにアタックしてきた私にせめて一回のご褒美でもいいから、一緒に園芸部行ってみない?」 「…」 「私、やっぱりルカちゃんには部活動入ってほしいなーなんて思ったり、絶対ガーデニングしてる姿にクラっときそうというか…ううん!お花に囲まれてる姿が絵になるというか…ね!一度でいいからー」 「…」 そんな女の子がなぜルカに声を掛けてきたのかと言えば、その理由は至極単純明快であり、ルカを日々困らせる原因になり得るにはナンバーワンの理由だった。 学校に通うという作業だけでもひどく辛いというのに、それ以上の苦行を強いられるのは御免被りたい。 ルカは、この一年、ハルの『押せ押せ部活勧誘』をできる限り躱してきたのだ。 正直に言うと、ここまでがっちりと捕獲されたのは二か月ぶりだ。 ルカは、掴まれた二の腕に手を添えると、出せる限りの優しい声を目の前の少女に向けた。 「ハルちゃん…いつもありがとう」 「ルカちゃん…」 「うれしいけど、やっぱり私は参加できないから…」 「でも…」 「ありがとう、ハルちゃん」 「うー…」 ふわりと真綿を包み込むように。 己よりもほんの少しだけ下にある頭に手を載せる。 狡いかもしれないけれど、有無を言わせる前に急いで言葉を重ねてしまう。 ルカは、本来なら一回りは違うはずのクラスメイトに目を細めると、もう一度だけ「ありがとう」を紡いだ。 「そう言われるとなんだか何も言えなーい!」 「ごめんね」 「うー…今日も一応見逃すけど、二年になるまであと一か月あるんだもん!部活じゃなくてもいいから一度は絶対にガーデンに来てもうからね!」 「…」 「絶対だよー!」と言いながら、するりと小指に指を絡めてくるハル。 高校生にしてはいくらか幼さの見える行動だけれど、それが似合ってしまうこの少女をどうしても憎むことはできない。 実年齢の差も影響しているのかもしれないが、周囲の人間を和やかにさせるこの少女の本質がそうさせるのだろう。 ルカは、決して頷くことはしなかったが、ハルの言葉に今一度目を細めると、「ほかの子たちが待ってるよ」と教室の隅からこちらの様子を伺い続けているハルの部活仲間に視線を送った。 「それじゃ、また明日ね!」 「うん」 「ルカちゃん、絶対だからねー!!」 「…、」 ルカが佇んでいる教室扉とは逆にあるもう一つの扉。 ハルは、ぱたぱたとその扉から出ていくと、部活メンバーに合流したのち駆けるようにして去っていった。 「…」 いつの間にか喧騒の薄れた教室内に溜息をこぼす。 先ほどハルに腕を掴まれたことによって、僅かに襟元に皺が寄ってしまった。 アイロンの弱まったハリのないシャツに手を滑らせ、ルカは完全に人気を失った教室を一巡する。 そして、教室を最後に出る生徒の仕事である消灯を確認すると、静かにその場を後にした。 * だから、このとき何にも気づくことができなかったのだ。 慣れてしまったこの現実味のない日常に、ようやくまた一日が終わったとホッとしてしまっていたから。 誰かが息を潜めてじっとこちらを見ながら、教室内に隠れていたことなんて、まったく気づきもしなかった。 表裏の常