それは、二年に進級した日のことだった。 退屈な高校生活を一年間耐え忍び、春休みという細やかな安らぎが明けた次の日。 前触れもなく、唐突に、それは起こった。 * 高校生活最初の一年間が終わり、桜並木が軒を連ね始めるころ、ルカは着慣れてしまった制服を身に纏い、ひとり遅めの登校を果たしていた。 たどり着いた昇降口で、新しいクラスが示された掲示板を目にする。 始業式まであと数分となった今、自身の周りには疎らな数の生徒しかいない。 そのためか、常であれば生徒たちで混み合う筈のクラス確認を、難なく済ませることができた。 「ふー…」 歩き疲れて出てきてしまった溜息、というわけではない溜息を口から漏らす。 早く会場に移動しなければ、遅刻になってしまう。 そう考えながらも、なぜか言うことを利かなくなり始めた身体に、ルカは苦笑を溢した。 きっと常人であれば首を傾げてしまいそうになる現象なんだろうな、と思う心理をやんわりと押し戻し、理由のわかっている現象に己を叱咤するよう拳に力を入れる。 そして、今朝方の出来事を後悔するように思い起こすと、「やっぱりやめておけばよかった」と今更ながらに肩を落とした。 一年の終わり頃、止む終えず交わしたとある約束。 相手はもちろん治しかいないのだが、その約束というのが、「二年の始業式の朝、ひとつの花を見てほしい」というものだった。 部活動に参加するわけではないなら、と承諾したそれだったが、実際当日になってみれば、予定された時間がひどく早朝だったのだ。 この身体になってからというもの、あまり寝つきの良い方ではなく、寧ろ不眠に悩まされ続けている状態だったため、朝5時の集合には些か辛いものがあった。 ふらりと揺らいだ身体を、掲示板に手をつくことで支えを保つ。 「…っ」 明け方に2時間程度眠っている近頃の浅い睡眠を抜いた身体が、否応なしに意識を引きずり込む。 ルカは覚束ない足取りで始業式の会場へと向かっていくと、途中、幸か不幸かルカの様子に気が付いた保健医と遭遇した。 「春瀬さん?!ちょっと、あなた大丈夫なの?!」 「いえ…、大丈夫です」 「そんな訳ないでしょう!担任の方には私から伝えておくから、今は保健室でじっとしてなさい」 「…、」 半ば引きずられるような形で、保健室へと連れられていったルカ。 いつの間にと思うも束の間、意識半分だった内に恐らく連れ込まれてしまった事実に、ルカは困ったように眉尻を下げた。 正直、笑顔を浮かべるのもキツイ状態ではあるが、「大丈夫」と告げ、なんとか保健医の手から逃れようとする。 然し、すかさずそれを阻止したのもまた保健医で…。 結局ルカは、「よくなるまで寝ていなさい」という保健医の言葉に従うことになったのだった。 * 「…ん」 眠ることはないと思っていた考えに反して、どうやら久しぶりに夢も見ずに眠っていたらしい。 未だ重い意識が微睡へと帰りそうになるのを堪えて、ルカはのっそりと上体を起こした。 同時に、シャーッと軽い音を立てて、仕切りのカーテンが開けられる。 「あ、起きたのね。今ちょうど起こそうと思ってたのよ」 「先生…」 「どう?調子は」 「はい、だいぶ良くなりました。ありがとうございます」 「そう、それは良かった」 へらりと笑みを溢し、今朝方と比べて大分軽くなった身体を動かしていく。 「起きられそうならこっちへ来てくれる?」という保健医の言葉に頷き、ベッド下に置いてあった上履きに足を滑らせる。 ふらつきも眩暈も感じられない身体に、一瞬不思議な感覚を覚えたが、久しい健康体に思わず口角が上がった。 「途中で起こそうとも思ったんだけど、そっとしておいた方がいいと思ってね」 「…?、はい」 「ごめんなさい、今日の授業全部終わったのよ」 「…」 「今はもう放課後。でもその判断でよかったみたいね、あなたの顔色すごく好くなったし」 「…ありがとうございます」 「オリエンテーションで配布されたプリントとかは多分後日担任の先生が説明してくれると思うから、心配しなくても大丈夫よ」 「はい」 「だから、今日はとりあえず家に帰ってゆっくり休みなさい」 「…はい」 保健室利用者カードを手渡され、ここぞとばかりに「よく眠ること!」を念押しされる。 保健医は、未だどこかほわりとしているルカの様子に不安を覚えたが、ちらりと見えた壁掛けの時計に、この後に待つ職員会議を思い出した。 ルカの肩に手を置き、視線の高さを揃えるように顔を覗き込む。 「また明日、何かあったら来なさい」 「…はい」 その言葉を最後に、帰宅の意を理解したルカ。 保健医は保健医で職員会議の準備に取り掛かり、保健室を出ていったルカの背中を見送ると、どこか愁いを帯びるような表情を浮かべた。 「なんか…、心配なのよね」 会議資料と筆記用具を手に、誰もいなくなった保健室を見渡す。 グラウンドの方から「ピィ―――」と声高に鳴る音だけが耳を掠めて、日の傾き始めた陽光に、保健医はどうしようもなく焦燥を掻きたてられた。 「…甘い、かおり」 * 保健医に言われた通り、素直に家へと帰宅したルカ。 単純に"家"とは形容しがたい自宅の玄関を通り過ぎた後、ポーンと到着を知らせるエレベーターの音に顔を上げた。 ルカは自分の住まいへと一直線に向かうエレベーターに乗り込み、上限の番号が表示された階で降車する。 シンとした廊下を抜け、この階に一つしかない扉の前に佇めば、あと一歩でドアノブに手が届くというところでカチャリと中から開けられた扉に「ただいま」と漏らした。 「おかえりなさいませ」 扉の向こうから現れた一人の紳士。 その背後に見える女性も、柔らかな笑みを浮かべて「おかえりなさいませ」と頭を垂れている。 ルカは見慣れた二人の様子に、もう一度「ただいま」と告げると、自然に引かれる手をそのままに足を進めた。 「今日はお早いお帰りと伺っておりましたので、夕食はこれから準備をいたします」 「あ…、はい」 「今から白野(シラノ)が外出いたしますが、ご入用のものなどございましたらお申し付けくださいませ」 「…特にないので、大丈夫です」 「さようにございましたか」 一切の違和感を感じることなく、さらりとした身のこなしでルカの荷物を奪っていく男性。 端整で雑じり気の一切ない笑顔を載せ、ふわふわとした天然の髪を跳ねさせている。 「お飲み物はいかがですか」とリビングのソファに腰かけていくルカに、アッシュグレイの瞳を細めて声を掛けていく様は、一見すると貴族のようにも思えた。 「花茶をお願いします」 「かしこまりました」 知的情緒を喚起させられる所作でリビングから立ち去っていく男性。 入れ替わりに、外出用コートを羽織った女性が近づいてくると、ルカはその女性――白野 千景(シラノ チカゲ)を見上げた。 白野は、先ほどの男性――南兎 宗靖(ミナト シュウセイ)とはまた違った雰囲気で、されど繊細な物腰でルカに微笑んでいる。 ルカはどうしたのかと小首を傾げると、徐に伸ばされてきた手に視線を落とした。 「今から外出してまいります」 「はい…気をつけて」 「ありがとうございます。春先とは言えまだ冷えますので、こちらをお掛けくださいませ」 「あ…ありがとう」 ふわりと、生まれたての小鳥を包(くる)むように、優しくルカの肩に掛けられた羽織。 羽毛のように重さの感じられないそれは、肌寒いこの時期によく着るお気に入りの室内着だった。 「それでは、行ってまいります」 「…、はい」 ほんの少し癖のついた、天然のアンバー色の髪を揺らす白野。 細められた同色の瞳が、陶器のような肌にうっすらと影を落とした。 軽く曲げていた腰を起こし、小さな会釈とともに背を向けていく白野。 これまた白野が部屋を出ていくのと入れ替わりに、南兎がリビングに入ってくると、ルカはテーブルに置かれていた本を手に取った。 準備された花茶を時折口にしつつ、ページを捲る音だけが響く部屋で時間を過ごしていく。 途中、暗くなってきた部屋に照明が点いたりと、集中を欠きそうになってしまったけれど、気がつけば完全に夜が更けてしまっていたことに目を瞠った。 「…」 「お読みもの中に失礼いたします。聡庵(ソウアン)様からお電話が入っております」 「え…父から?」 「はい、こちらにお電話を置いておきます」