04
お互い無言の数秒が過ぎた。
「……特に、何も変わった様子はないな…」
自分の体をあちこち確認しながら俺は呟く。
一方の猫又はといえば、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして目を瞬かせていた。
「……なにかおかしなことでもあったのか?契約手続きに不備とか?」
この猫又、いつも大体不敵に笑っていたものだから流石の俺でも表情の変化に気付く。
俺の問いに、猫又はハッと我に返って笑みを作って答えた。
「……いや。契約は問題ないぜ。じゃあ最終段階だ」
「?終わりじゃないのか?」
「いーや、今はまだ言うなれば仮契約の段階だな。本契約が成るのは俺がご主人に“契約の証”を、ご主人が俺に“呼び名”を与えた時だ。……ってわけでご主人、」
「……」
「名前つーけて?」
「可愛くないな」
「酷いな!」
それから体感時間で(実際は時間が止まっているのでノータイムなわけだが)たっぷり5分ほど悩んで猫又に呼び名をつける。
「……じゃあ、ブラン」
「ブラン。ブランね。悪くねえけど、どんな意味だ?知らない響きだな」
猫又、改めブランは自分の名を何度か復唱してから訊ねた。
「故郷の言葉で、白って意味だよ」
正確にはフランス語だけれど。白猫だからいいだろう。シロだとどうしても犬っぽいしな。
ブランは満足げに笑った。
「白と黒(ノエ)たぁ考えたな、ご主人」と。
そして「今度は俺の番だな。どんな証がお好みだ?」と言って、俺の頬に手を触れた。
これに関しては、問答していた時から考えていた。服を脱ぎでもしない限り見えない場所で、仮に脱ぐような事態になっても人工物と言い訳できるもの。
「ここに、タトゥーを入れてくれ」
左胸、鎖骨より少し下。すなわち心臓の上を指差すと。ブランは俺の左胸にその長い爪を軽く立てて言った。
「いいだろう。ココに俺の花押を加えてやるよ」
蠱惑的な笑み。三日月に細められるスカイブルーと真紅に思わず見とれる。
――ほんの瞬きするほどの時間で、ソレは俺の胸に刻み込まれていた。
痛みはなかった。
ふっとブランから視線を外して胸を見たら、気付けばそこに在った。
大きさは拳より少し小さいくらい。
猫と薔薇をモチーフにしたらしいデザイン。
文字は読み取れないが、花押というからにはなにがしかの略字になっているのだろう。魔物の使う文字は俺にはわからないが。
「これでおしまい。これから宜しくな?ご主人」
「ああ」
俺は、もしかしなくても禁術の類を使ってしまったのだろう。けれどコレは武器になる。
俺がこの世界で生き抜き、世界を知り、問題を乗り越えてゆくための。
さあ時間停止を解除しよう、となった時だ。
ブランがさも今思い出したかのように声を上げた。
「……そういやご主人」
「どうした?」
「ご主人ってやっぱり邪法使いだろ?」
いきなり何を言うんだこのニャンコ。
「はあ?俺もお前に嘘はつかないよ。契約は正真正銘ブランが初めてだよ。どうしてそんなことを?」
……なんかこの言葉、浮気を誤魔化す夫みたいだ。心の中でツボに入っていたが、ブランは腑に落ちないといった表情で言った。
「……そうなのか。でも、ノエ=エトワールって偽名だろ?」
……そんなことを教えた覚えはない。
「どうして分かった?」
心なし低く問い詰めるような口調になるが、ブランは何処吹く風。おお怖い怖い、と言うような仕草をしながら言った。
「…契約した時、本名を握った感覚が無かったからな」
ブランの話は要するにこうだ。
魔物との契約で本名を教え合うと、お互いにとんでもなく強くなる代わりに結びつきが強くなりすぎる。それこそ、来世でもその次でも無意識に近付いてしまうほどに。本名を教え合うのは愛し合って番になりたい時くらいらしい。
故に魔物側は本名を教えず、呼び名をつけてもらうのだそうな。
加えて、人間側の本名を知っていれば魔物側は“本名を教えるかどうか”を決める権利があることになるので、事実上魔物側はやや優位に立てるらしい。
「ご主人だって俺と魂の番になんかなるつもりねえだろ?」
ブランはそう付け加えた
……なるほど。
だから契約が終わった時驚いていたのか。
「だからとんでもなく慎重な野郎だなって思ったわけ。俺に本名を明かさないなんてよ。……まあ偽名でも問題なく契約は成るからいいんだけどな」
かなり大事なことを隠しておいてくれやがって。俺はため息をついた。
「……別に狙って偽名を使ってるんじゃない、成り行きだよ。この世界に俺の本名をフルネームで知っている人は誰もいないから、俺が口をすべらせない限り魂で結びつくことはなさそうだ。安心してくれ、ブラン」
じっと見つめて教えてやれば、ブランはどういうことか察しかねているようできょとんと目を見開いた。
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