忘却の彼方には何もない

此処が生前読んでいた漫画の世界だと気付いたのはいつだったか。読んでいたと言ってもさらっとだし程よく忘れているので、今後の展開がどうだとかは分からないけれど、今の状況があまりよろしくないということだけは分かる。

声を出さないように、自分の手で口を覆う。何で彼らがこんなところにいるのだろう。自分の運の無さとタイミングの悪さに溜息を吐く。本当についてない。できるだけ気配を消してその場をやり過ごす事しか思いつかなかった。

夜景スポットであるお気に入りの廃ビルにいつものように忍び込んだ。今日は満月だからいい写真が撮れそうだと意気揚々とお月さまが出てくるのを待っていると、どこからか男性の話し声が聞こえる。酔っ払いだったら嫌だなあと、なるべく関わらないよう無視を決め込んでいたのだけど、段々話が穏やかじゃない方向に歩き出した。終いには何かを投げ飛ばす音が聞こえ、そっと物陰から顔を出すと、見たことのある顔が2つ並んでいる。

「流石だな、スコッチ。俺に投げられるふりをして拳銃を抜き取るとは」

そう言って両手をあげるのは何時ぞやの真純ちゃんのお兄さんだ。相変わらずの長髪である。一方、日本では警察しか携帯を許されていない黒いものを構えスコッチと呼ばれたのが、真純ちゃんにベースを教えていたお兄さん。

「拳銃を奪ったのはお前を殺すためじゃない。こうする、ためだ!」

そう言って自分の胸に拳銃を押し当てる。やめて、そんなバイオレンスでグロテスクな展開は望んでない。そこのあたりは真純ちゃんの兄も一緒なのか、しっかりと拳銃を握り止めていた。いいぞ、真純兄!

「自殺は諦めろ、スコッチ。お前はここで死ぬべき男ではない」

「何っ…」

レボルバーを掴まれたら人間の力ではトリガーを引くことは不可能だとか言ってるけどそんな雑学は心底どうでも良かった。真純ちゃんのお兄さんが某国の警察から忍び込んだ潜入捜査官だとか、例の組織だとか、自殺しようとしているスコッチさんも実は公安から潜入しているとか、そんな話を聞きながらふと思う。どんな事情があっても急いで死を選択するのは何か違う気がするのだ。そんなの、残された方が悲しいだけ。

「…間違ってるかなぁ」

無意識に吐き出されたため息と独り言は存外大きく、ピリピリした2人が私の存在に気付くには十分だった。

「いつからここにいた」

「…流石だな、スコッチの前くらいですかね」

やってしまった。無意識に出てしまった声に気配に敏感な2人が気付かないはずもなく、頭上から2人分の視線を感じた。聞かれた質問に答えつつ、ばっと両手を上げて降参アピール。もうやだ2人ともこれでもかってほど睨んでて怖いよ。しかもスコッチの胸に向いてたはずの拳銃か今は私に向けられている。解せぬ。

「やめてよ誰にも言わないから撃たないで!まだ死にたくない!」

「…」

「私は何も見なかったし聞かなかった、ってことでオーケー?」

私の処遇をどうするか、2人がかっこよく視線で会話している隙に、ここぞとばかりに身を翻す。逃げるが勝ちとは正にこのこと。脱兎のごとく走り出した私を止める声を出したのは果たしてどちらだったか。もうやだ怖い。私のお気に入りの場所に来て、不穏な空気を作ったのは彼らの方だと言うのに、とんだとばっちりだ。逃げる途中、銃声が一発聞こえたがそんなこと気にする余裕はない。ひたすら足を動かして地上を目指す。兎に角、私は平和でいたいのだ。殺人現場とか自殺現場とかには極力無関係でありたい。

廃ビルの外階段を降り、その勢いのまま隣の廃ビルに飛び移る。この辺りはビルの間隔が狭いこと、中学の頃面白半分でパルクールをしていたのが幸いした。と思ったのも束の間、難なく隣へと移った私の足元に威嚇射撃なのか一発の銃声が放たれる。

「っ…!」

ちょうど階段の手前だったこともあり、バランスはよろしくない。ぐらりと傾いた身体は支えもなく、硬いコンクリートに叩きつけられた。痛む身体に鞭打って起き上がったけれど、後頭部に細長い筒のようなものが当てられ観念することにした。抵抗の意思はないと両手を上げる。

「お前は何者だ」

「普通のフリーターです。逃げてごめんなさい」

「…」

月を覆っていた雲が晴れ、廃ビル内をうっすらと月明かりが照らす。私を追ってきたのはスコッチと呼ばれていた男性だ。顔に張り付いた素人の怯えが見て取れたのだろう。彼は私の顔をじっと見た後、視線を合わせるようにしゃがみこむと、少し困ったように笑った。

「そうか…巻き込んでごめんな。怪我は」

「ない、です…」

「良かった。ただ君を無罪放免にするわけには行かないことは分かるな?」

「…うっすらと」

「そんなに怖がらないでくれ。悪いことしてる気分になっちまう」

困ったように頭をかいたスコッチは、先ほどの緊迫した状態と打って変わって、立てる?と言って手を差し出してくれた。そこは紳士らしいけれど、私の身体の心配よりもカメラの心配をしてほしい。傷がついていたら弁証してもらおうと思っていることに、彼は気付いているのだろうか。スコッチは私の身体に傷がないことを確認したのち、携帯でメールを打つ。その間、取られた腕が解放されることはなかった。メールを終えると、スコッチはやはり困った顔で笑っている。嫌な予感しかしない。

「悪いんだけど、最後まで巻き込まれてくれる?」

「へっ?」

一度離れた平穏は、そう簡単には戻ってこないようだ。