春が醒めたら



彼を"松田さん"ではなく、"陣平さん"と呼ぶようになってから少し経った。初めはそれはもう恥ずかしくて恥ずかしくて顔から火が出るかと思ったのだが、慣れて仕舞えばなんてことない。と思いたいのだが。玄関の鍵を回す音がして、キッチンから顔をのぞかせると夜なのに相変わらずグラサンを付けた彼がため息交じりに靴を脱いでいた。疲れているその背中に声をかける。

「おかえり〜早かったね」

「萩原に押し付けてきた」

「おおう…ドンマイ、萩原さん…今度珈琲でもおごってあげよう」

「あいつの場合は自業自得だ。日ごろさぼってるからな」

「親友が仕事に埋もれてても助けない陣平さん…相変わらずぶれないね」

「あいつに情けかけるだけ無駄だ」

そんな軽口をたたきながら部屋に上がってきた陣平さんは、丁度盛り付け終わったお皿から唐揚げを一つかっ攫っていった。うーん、手ぐらい洗ってほしかったな。お腹壊すのは陣平さんだから別にいいけれども。そのまま自室へ消えていくので、とりあえず私も夕飯の用意をしてしまおうとキッチンに戻る。さっきまでは一人だったから鼻歌交じりに準備もできたけれど、家主が帰ってきたことで緊張感が増す。誰だよ、今日ご飯作りに行ってあげるとか言ったの。私だ。お家訪問がこんなに緊張するとか思わなかった。あれ、私って陣平さんとどうやって話してたっけ。あれ、呼吸ってしてもいいんだっけ。今になってだらだらと冷や汗が出てきて混乱する。そもそも彼女って何?悶々と悩みながら高い位置にあるお皿に手を伸ばしていると、ふっと視界に影が差して、私が苦戦苦闘していた高さからすんなりお皿を取り出してくれた。スパダリ最高。

「おお、有難う!」

「おー。その背じゃ届かないだろ」

「もうちょっと低い位置に置いといてくれると…」

「踏み台でも買うか」

「…子ども扱い止めてくれません?」

ジト目を向ける私とは打って変わって楽しげな陣平さん。何だその緩みきった微笑みは。私の呼吸を止めたいのか。

「…その顔やめてもらえません?」

「元からこの顔だっての」

そう鼻で笑うような声を出されて、ぐっと唇を噛む。いつもはそんなにによによしてないし、サングラスをかけてるから直接目が合うことも少ない。だのに室内ということもあり心ばかりのバリケードは勿論ないし、それどころか部屋着だよ。スーツ以外の松田さんが見れるなんてちょっと、いやだいぶレアではないだろうか。いやいや、そんなことはどうでもよくて。取り敢えず、私の反応を見て楽しむのはやめてほしい。こちとら男性の扱いには慣れていないのだ。

「そんなに緊張すんな。焦る必要はねーよ」

ポンポン、と萩原さんがよくやるように頭を撫でられて、取り皿を持ってテーブルの方に向かった陣平さん。一拍遅れて、自分の頭からボフッと蒸気が出てる感じがする。あああああれは反則。あんな優しい目なんて見たことない。心臓吐く。なんかよく分からないけど、砂糖漬けの気持ちがわかった気がする。

「なまえ、箸とって…て何してんだ?」

「うん、陣平さんってどのくらい女の子泣かせたのかなって思って」

「はあ?」

何言ってんだ、こいつみたいな目を向けられた後、ぐっと眉間に皺が寄せられる。どうやら私の物言いが気に食わなかったようで、めっちゃ不機嫌。決して悪い意味で言ったんじゃなかったんだけどな。

「ごめんごめん。ほら、私こういうの初めてだからさ、経験の差を感じてたというか何というか」

「…馬鹿なこと言ってっと押し倒すぞ」

「わわわ!待って待って!サラダ持ってるからだめ!」

「そっちかよ。まぁいいけど」

冷める前に食おうぜ、と私に着席を促す陣平さんに素直に従って、ちょこんとソファーに座る。はい、勿論彼のお隣です。カップルシートを映画館以外で使うとは思わなかった。内心ガッチガチのバックバクだけど、そこは日頃から鍛えてるポーカーフェイスを駆使して、微塵もそんな気配は悟らせない。

「…」

「……」

「………」

「いや、何か喋れよ。緊張しすぎだろ」

「ファ?!」

「いや、奇声じゃなくてだな…」

「おおおう。今日も元気に爆弾処理できた?」

「今日1番の危険物は今のなまえな気がするが…」

不審なものを見るかのような視線は止めていただきたい。これでも緊張してんです、と小声でいえば、まぁ、気持ちは分かると言われた。え、分かんの?陣平さんって緊張しないかと思ってた。もぐもぐと唐揚げを貪る陣平さん。人間の頬袋って初めて見たけど、何だが可愛くて笑ってしまった。

「緊張してんのはなまえだけじゃねぇってことだな」

「え、うっそだ〜。そのイケメン具合で慣れてないとかどんだけ無駄遣いなの」

「酷え言われようだな、おい。まあ警察学校出てから仕事一色だったからな…配属先も男所帯だし」

「あー…確かに。でも合コンとかあったんじゃない?」

「んなもん行くくらいなら萩原と解体時間競うわ」

「あ、根っからの爆弾マニアだってこと忘れてた」

「へえ…?はっ倒していいか?」

「え、付き合って早々DVはお呼びでない!」

仮にも警察官なんだから乱暴はだめだよ、と諭すと、フッと笑ってくれた。気づけばいつも通りに会話ができていて、緊張しないように気を利かせてくれる陣平さんはマジでできた人だと思う。よく周りがほっといたなあ、こんな優良物件。そんな彼に選んでもらえたのだから、両手を上げて喜ぶべきなんだろう。チラリと隣の彼を盗み見る。美味しそうに自分の作ったご飯を食べてくれて、冗談を言い合える人ができるなんて。これはたぶん、何でもないようなことだけど凄く幸せなことなんだろうなと改めて認識した。

「えへへ〜」

「急にどうした。表情筋が消えてんぞ」

「んーまあ、幸せだなあって思って」

「…」

「私は幸せ者ですなあ」

ふへへ、と笑う。頬がゆるっゆるなのは指摘されなくても分かる。そんな私を見た陣平さんもおんなじように頬を緩ませてくれたから益々嬉しくなる。またご飯作りに来るねといえば、楽しみにしてると言ってくれた。次回は更に腕によりをかけなければ。

「まあでもいいもんだな」

「ん?」

「帰ってきたら出迎えがあってご飯ができてるってのは」

「…陣平さん、それ反則。ちょっとこっち見ないで」

顔に熱が集まる。そんなしみじみ言わないでほしい。不覚にもキュンとした。いや、キュンどころじゃない、ギュンだな。心臓が締め潰されるくらいの強さだった気がする。両手で顔を覆うけど、楽しげな陣平さんが覗き込んでるのがよく分かる。その証拠に指の隙間から見た彼は相当ニヤニヤしていた。その顔やめろ。そうして、程よく会話と箸が進んだところでピンポンとチャイムが鳴る。宅配便だろうか。出る?と陣平さんに聞くとなぜか片手で顔を覆っていた。

「…嫌な予感しかしねえ」

「実家からの仕送りとか?私出たほうがいい?」

「いや、なまえはここにいろ」

「うん、分かった」

はあああと大きなため息を吐きながら玄関に向かった陣平さん。苦手な隣人さんでも来たんだろうかと耳を澄ませていると、急に騒がしくなった上、聞き覚えのある声が玄関に響いていた。若干お怒り気味なのは気のせいだと思いたい。取り合えず、私が出ていったら余計に火に油だと思ったので大人しく唐揚げを咀嚼していたのだが、どたどたと遠慮のない足音とともにリビングの扉が開いた。

「…あは〜お仕事お疲れ様、萩原さん」

「なまえちゃん酷い!お兄ちゃんに内緒でこいつと付き合うなんて…!」

「兄じゃねえだろ、ふざけんな。つーかどっから情報仕入れた」

「宮本婦警」

そのままソファーに飛び込んで来そうな勢いの萩原さんの首根っこを、陣平さんが鬼の形相で掴んでいた。不機嫌な視線はそのままに標的が私に変わる。おうおう、その瞳は犯人と爆弾にだけ向けてほしいかな!親友の萩原さんには伝わってると思うじゃん。確かにほくそ笑んだ由美さんを見て嫌な予感はしたけど。ネタにされるかなとは思ったけれども!

「…なまえ」

「えへ…買い物してるときに会ってバレちゃって…というか萩原さん知ってるもんだと思ってた」

「普通そうだよね?!親友の俺には言うと思わない?!」

「あー、うん。思ってた…陣平さん、なんで言わなかったの?」

「陣平さん、だと?!」

私の言葉にここ世の終わりみたいな顔をした萩原さんが、がくん、と床に膝をつけた。大丈夫だろうか。ちらっと陣平さんをみるも、ほっとけとばかりに首を横に振られる。かなりのショックを受けているのにほっておけるわけないだろう。オロオロしながらなんと声をかけようか悩んでいると、くわっと目を三白眼にした萩原さんがその恐ろしい顔を陣平さんに向けた。

「…表出ろや、松田ァ!」

「出ねーよ。飯食ってる最中だっての」

「萩原さんも食べる?」

「食べ…「いや、こいつ帰るから。気を回さなくていい」…うわ、ひでえ」

2人とも凄く涼しい顔して話してるけど、扉とか壁がメリメリ言ってるの気付いてる?首から下は牽制合戦になってることに苦笑いしつつ、なんだかんだで居座りそうな萩原さんの茶碗を用意することにした。唐揚げに嬉々として飛びつく萩原さんがいる一方、邪魔者がうぜえとばかりに拗ねてしまった陣平さん。あとで何か言われそうだなあ。取り皿と箸、それからグラスを取り出した私の耳元で、後ろから近付いてきた彼がぼそりと呟く。

「仕切り直しだな」

「そうだねえ…何だかんだ、陣平さんも萩原さん離れできてないしね」

「逆だろ。あいつが親友離れできてねーんだよ」

さっきから溜息ばかりの陣平さんの頭を撫でておいた。するりとお腹に腕が回される。うん、肩に凭れ掛かるの止めてもらっていい?外れそう。そんなことをしているとやっぱり突っ込みを入れるのは萩原さんで、どこからか出したホイッスルをピピーっと吹いた上にレッドカードまで突き上げていた。

「はい、そこー!!イチャイチャしない!!」

「うるせえ!!」

一等にぎやかになった食卓を囲みながら、ちらりと陣平さんを盗み見る。萩原さんと唐揚げを取りあう彼はいつも通りの彼だ。さっきまで感じていた甘さはどこへ行ってしまったんだろう。まあ、萩原さんにあんな表情をしていたことがばれると色々と大変になるから隠しているんだろうけど。うーん、陣平さんの受難はまだまだ続きそうである。


title by 夜途