放っておけない
「貴様、その腕は何だ……?」

ぎょっとして思わず指をさしてしまった。

「怪我をしたんです」

いつもと変わらず冷めたような目でこちらを見て淡々と言う。そんな彼女の左腕はギブスで固定されていて、骨折したのだろうということがひと目でわかった。

「強化人間でも骨折するのだな」

皮肉を込めて言ってみるがマリーダは相変わらず無表情で返す。彼女とはどうも反りが合わないと改めて感じ、軽く咳払いをしてもう一度彼女を見据えた。

「任務はどうするのだ」

「幸い利き手は平気なので、片手で出来る程度の任務をこなすように、と大佐がおっしゃってくれました」

「大佐が……」

大佐の指示ならば仕方がない、か。心中で呟くとアンジェロは嘆息を漏らした。
マリーダは問題なさそうに話すが、ギブスで固定されて動かせない腕を見るとなぜだかちょっと気の毒な気分になった。

「まあ、いい。悪化だけはさせないようにしろよ」

フンッと鼻を鳴らしてアンジェロは足を一歩だけ踏み出す。後ろで「はい」と小さく声を出したマリーダを視界に入れぬまま、立ち止まりかけた足をまた動かすとスタスタとその場を去った。

***

「お疲れ様です」

親衛隊の執務室に足を運ぶと、アンジェロの存在に真っ先に気がついたキュアロン中尉が笑顔で言った。ああ、と素っ気なく返し、自分のデスクの椅子に腰掛けるとひとつ溜息を吐く。

「どうしたんです?」

これまた隣の席のキュアロンが口を開く。

「いや、先ほどたまたまマリーダ中尉とすれ違ったのだが、骨折をしていてな」

「あぁ、そうらしいですね。僕も少し前に見かけたんで声を掛けたんですけど」

「おまえもか……」

「はい」と心配そうな顔をしてキュアロンは再びデスク上の端末と向き合った。その会話をしっかりと聞いていたセルジ少尉が今度は口を挟む。

「彼女がパイロットをやれないとなると、ガランシェール隊はどうするんでしょう」

アンジェロの向かいに座るセルジは、自身の短い金髪に軽く触れながら言った。

「さあな。他にもパイロットはいるんだ。奴らなりに考えるだろう」

「そうですよね」

眉尻を下げると紅茶を一口飲んだ。
彼はとても真面目でしかも優しいので、ときどきパイロットという仕事は合わないのではないかと思うときがある。今もこうしてマリーダのいるガランシェール隊のことも心配しているので、アンジェロはある意味感心した。

「大尉、紅茶です」

奥にある給湯室から出てきたゼクスト少尉がアンジェロのデスクに紅茶を置く。彼の淹れる紅茶はとてもおいしいので、好きだった。

「助かる」

置いてくれた紅茶に手を伸ばし、それを口に含むとアンジェロは目の前にある書類の山と向き合った。今からはこれらと戦わなければならない。意気込んでいちばん上にある一枚を手にとると、アンジェロの試練は始まった。

30分くらい経ったときだったか。ドアの向こうでガタンと大きな音がして、執務室にいた全員が一斉に音のしたほうを見た。

「なんだ?」

「ドアの向こうからでしたよね?」

「とりあえずドアを開けます!」

ドアにいちばん近い席のセルジがドアノブに手を掛け、ゆっくりとドアを開ける。ぎぃ、という音とともに開いた廊下へと通じる重いドア。瞬間、ぎょっとした顔をしたセルジが真っ先に外へ飛び出した。それを見てアンジェロも慌ててそちらに駆け寄ると、床に手をついて座り込んでいるマリーダの姿があった。いつもひとつに束ねられている髪は下ろされており、彼女の周りにはいろいろなものが散らばっていた。書類、着替えの軍服、軍服の下に着るインナー、ブラシ……。

「マリーダ中尉!大丈夫ですか!?」

困ったようにおろおろした様子のセルジが叫び、マリーダの横にしゃがむ。アンジェロの次に出てきたキュアロンが、「どうしたんです!?」と言いながら散らばってしまった書類を拾う。
左腕が固定されていて思うように動かないのに苛立ったのか、マリーダが綺麗な顔を歪めると、立ち上がろうと右手を床につく。彼女は並の人間より運動能力が優れているためかひょいと立ち上がると、「申し訳ありません」と呟いた。

「今転んだせいで怪我は?」

ドアから顔だけを出してバト少尉が喋る。こういう状況になれていないアンジェロはただ呆然とマリーダを見下ろしていた。

「服とかも拾っちゃって大丈夫です?」

一通り書類を集め、散らばらないように執務室の空いているデスクの上に置いたキュアロンが言う。マリーダが「大丈夫です」と返すと、その他落ちているものを拾い始める。マリーダも近くに落ちていた私物を掻き集めると自由の利く右手だけで抱えた。

「とりあえず中に入ってください。一旦座りましょう」

中から出てきたゼクストが手のひらで指し示して言うと、マリーダは少し困った顔色を浮かべたが、「そうさせてもらいます」と小さく頭を下げた。



「で、貴様はなぜ転んでいたのだ」

空いているデスクに座り、ゼクストが出した紅茶を一口すすったマリーダにアンジェロは問うた。伏し目がちな瞳をこちらに向けるとカップを置く。

「シャワーを浴びて、自室に戻ろうとしたんですが荷物が多かったので」

いつものように淡々と喋るマリーダ。

「……つまずいたのか?」

「はい」

「身体能力は他の奴より優れているのではないのか?」

「そうですが、片腕が使えないので受け身がとれずそのまま転びました」

強化人間だろうと怪我をすれば身体能力も劣るのか。それを知り少しばかり満足を覚えたアンジェロは隣にいたキュアロンに視線を送った。

「しばらくこいつを休ませておけばいい。好きなときに帰らせろ」

「えっ、ですがそれは」

「わたしは任務に戻るぞ」

踵を返し少し遠い自分のデスクに向かう。しかしアンジェロが椅子に座ろうとしたタイミングでドアがノックされたため、そのまま眉間にシワを寄せながら扉を開けるなり、深い赤色を纏(まと)った軍服が目に入る。

「大佐……!」

予告もなしに訪問したフロンタル大佐を見て、そこにいた全員が立ち上がり敬礼する。フロンタルも敬礼を返すと、「先ほど大きな音がしたがどうした?」とアンジェロに訊いた。

「はっ、マリーダ中尉が転んでしまい、その際に持っていたものを落としたのです」

「マリーダ中尉が?」

フロンタルは顔を動かし、奥にいるマリーダを見る。その仮面の下に隠されている目は、どんな色をしている?

「怪我はしていないな?」

「はい。ご心配、ありがとうございます」

ふたりとも表情を変えずに話す。その空気にアンジェロはふと緊張を覚えた。大佐がここへやってきたというのも理由のひとつだが、マリーダをそのままにしておいていいわけがない。瞬時にそう頭で理解した。つい数分前まで、彼女のことなどどうでも良いから放っておこうと思っていたのに。

「では失礼する」

外へ出ようと動いたフロンタルに「はっ」と返せば扉が閉まる。振り返ると、髪をゴムで纏めようと苦戦しているマリーダがいた。

「片手では無理だ」

歩み寄りその手からゴムを奪う。今にも文句を言ってきそうなその瞳を見、アンジェロは口を開いた。

「わたしが結んでやる」

「大尉が?」

そうだ、と呟くと彼女の髪に触れた。腰の辺りまである栗色の髪はさらさらとなびいていて、シャンプーの甘い匂いがした。が、瞬時にある違和感も覚えた。

「乾かしていないのか?」

完全に濡れているわけでも、乾いているわけでもなく、触ると少しだけ湿っているのがわかるくらいだった。だが、この長さで自然乾燥させるのでは、髪が傷んでしまう。

「片手が使えないので髪も乾かせないんです」

変わらず顔を正面に向けたまま彼女は言った。その会話を聞いていたらしいキュアロンが「ドライヤー持ってきます?」とアンジェロに声を掛ける。

「頼む」

キュアロンが執務室を出て行くと、部屋中が沈黙する。親衛隊の面々はそれぞれの仕事をこなしていて、アンジェロは変な気分になった。

「持ってきましたよ」

暫くして軽く乱れた髪で現れたキュアロンがドライヤーをアンジェロに渡すと、コンセントに挿す。スイッチをオンにすれば出た力強い温風が、マリーダの髪の上を流れるように走る。

「まったく、手間のかかる」

手櫛で髪の間を梳かしつつ根元が乾くようにドライヤーをあてる。キュアロンが隣でじっとそれを見つめている。

「大尉、うまいですね」

「当然だ。昔よくやっていたのだからな」

「昔?」

声を上げたのは初めに話しかけたキュアロンではなくマリーダで、「貴様は黙っていろ」とアンジェロが一括するも聞く様子はなく続ける。

「母親にでも?」

「貴様に教える義理はない」

強く言えばマリーダの口も塞がった。苦笑を零すキュアロンと、なぜか軽くうろたえるセルジ。そんなことはお構いなしにアンジェロはまた眉間に深いシワを寄せて、今度は髪をくしゃくしゃにするようにドライヤーをかけた。さっきまでの優しい手つきはどこへやら。しかしマリーダはどこ吹く風。相変わらず表情を変えずにただされるがままだった。

「そろそろ乾いたんじゃないですか?」

キュアロンが沈黙を破るように口を挟まなければ、そのままずっとドライヤーをし続けるところだった。アンジェロはスイッチを切るとまた乱暴に髪を撫でてくしゃくしゃとマリーダの髪を直した。

「せめて櫛使ってあげてくださいよ」

やれやれといった感じのキュアロンが櫛を差し出すと、アンジェロは素直にそれを受け取ってマリーダの髪を梳かした。そしてゴムを器用に動かし、あっという間に髪を纏めると彼女の栗毛がさらりと風になびいた。

「できたぞ」

溜息をついて腕を組んだアンジェロが得意げに言った。椅子から立ち上がったマリーダがセルジに渡された鏡で自身の姿を確かめると、「なかなか上手に結うんだな」と呟いた。

「当然だろう。誰がやったと思っている」

変わらず同じ調子で、俗に言うドヤ顔≠ナ喋るアンジェロをマリーダは一瞥すると小さく首をかしげた。

「大尉はいつも髪のセットにどれくらいの時間を掛けています?」

「は?」

「……その髪、さすがに自然にそうなっているわけではないでしょう?」

 そう言われてアンジェロはなぜか素直に「三十分くらいだ」と答えてしまった。

***

「結局放っておけないんですから」

 眉尻を下げたキュアロンが冷めかけた紅茶を口に含みながら言った。

「今回はたまたまだ。強化人間が怪我をするなどと笑える話だ」

 フンッと鼻を鳴らしてアンジェロが笑う。デスクに向かい、また書類と睨めっこするのは正直うんざりだが、モビルスーツに乗るような任務が提示されないのなら仕方がないとまた一つ溜息をついた。先日の戦闘で連邦は疲弊しているだろうし、当分は書類整理に追われるだろうと思うと気が重かった。

「隊長、こんなものが落ちていました……」

 ゼクスト少尉が手のひらをこちらに差し出す。そこにはピンク色のリップクリームが乗っていた。

「……誰のものだ?」

「……おそらく、マリーダ中尉のものかと……」

「またあいつか!」

 確かにそれは、親衛隊の執務室では見たことのないデザイン。リップクリームを使うのはアンジェロとキュアロン、ゼクストだけだが、こんなに可愛いものを使うはずはない。

「……取りに来ると思うか?」

「……それは何とも」

 はあ。今度こそ盛大な溜息をついてアンジェロは重い腰を上げる。

「置いておいても邪魔になるだけだ。仕方ないから届けてやろう」

 カップの紅茶を飲み干して、廊下へと通じるドアを開ける。窓から見える景色はもう、真っ暗だった。



「アンジェロ、なんだかんだいって最後まで中尉のこと放っておけませんよね」

 彼が出て行った執務室では、残った親衛隊員だけでこんな会話をしていたらしい。


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