小腹がすいたけれど夕飯を作るにはまだ早い時間だった。それならば夕飯を作りながらつまみ食いをすると、たった今空腹を訴えている腹を少しは満たせるだろうと考えた。そう思い立ってキッチンで材料を選んでいる最中だった。彼女が入ってきたのは。

バタン、と扉の閉まる音がして、すぐさま思いついたのは自分の兄の顔だった。ただいまを言わないあたりまたスペイン兄ちゃんと喧嘩でもしたのだろう、と不機嫌な兄を出迎えようとしてふと足を止める。
先程までいた自室のベッドで気持ちよさそうに眠る兄の可愛らしい寝顔をここぞとばかりに堪能していたことを思い出した。ならば一体誰が家の扉を開けたのか。この家には自分と兄しか住んでいない上、その両者とも家の中におり外にはでかけていないのだ。
それでも確かに聞こえた扉の閉まる音にビクビクしながら、足音を鳴らさないように慎重に玄関の様子を窺う。最悪のことを考えてすぐにドイツに電話できるだろうか、と電話の位置を思い出しながらキッチンから顔を出すと、薄汚れた布で体を覆っている女の子が扉の前で背を向けて立っていたのだ。軽くホラーである。

突然のことに驚いて持っていたトマトとナイフを落としそうになったけれど、なんとかそれは免れた。いつもなら女の子とわかればすぐに声をかけるのだけれど、この時ばかりはその行為をためらった自分を褒めてもいいと思う。
もしあの女の子が銃を向けてきたり、自分たちに危害を加えようとするのなら、二階にいる兄だけは見逃してもらえないだろうか、などと、起こりうる可能性を考えた。けれど、女の子は扉の前から一向に動こうとしない。それどころか必死に外を警戒しているようで自分が後ろに立っていることすら気付いていないようだ。
そういえばさっきから外が騒がしい気がする。聞こえてくる声からして誰かを探しているようだ。もしかしてこの女の子なんだろうか?

泥だらけの足はガタガタと震えいて、鍵をかけたままの状態の手には小さな傷がいくつも見える。肩を上下に動かしながら時折泣き声のような声も聞こえる。
何かがおかしい。でもその何かがわからない。けれど今目に見えている状況だけで判断するにはまだ早いと思った。いてもたってもいられなくなって、とりあえず声をかけてみることにした。

「あ、あのー…」

声をかけられて初めてそこに人がいると気付いたのか、ビクリと思いっきり体を跳ねらせてこちらを振り返った。その顔立ちに今度はこっちが驚いた。
最も良く知る友人のように黒い髪と目を持ち、自国にいる女性よりはるかに小さい体のその子は、言うならばこの世の終わりと呼ぶにふさわしい顔をしていた。

「あの、大丈夫?どうしてここに?何かあったの?」

怯えと恐怖を孕んだ瞳はこらえきれないほどの涙を浮かべていて。こちらの問いかけに一切答えることなく、ただ怖い、そう思っているのが手に取るようにわかった。
エプロンをつけてトマトとナイフを持った間抜けな姿にすら恐怖を抱くほど、どうやら今のこの子は精神的に笑う余裕などないのだろう。これが自分の立場だったらこの状況がシュールすぎて腹抱えて笑っちゃうのに。

刹那、扉を力いっぱい叩く音に同時に肩が飛び上がったのは言うまでもない。女の子は息を殺して扉を見やる。か細い声で何かが呟かれたけれど、なんて言ったのかは全然わからなかった。せめてこの子を少しでも安心させてあげようと思った自分をドイツは叱るだろうか?

「ヴェネチアーノ様!いらっしゃいますでしょうか!?」

いまだ忙しなく扉を叩く人の声で、兄が起きてきたらまたややこしくなるだろうなと思い、はいはーいと間延びした声で返事をした。
ぼろぼろととめどなく涙を流す女の子の頭にポン、と手を置いて口元に人差し指を作った。これくらいのジェスチャーなら伝わるよね?驚いてこちらを凝視するその子にもう一度優しく頭をポンポンっとしてから今開けますよ〜っと言いながら女の子を扉の影に隠した。

「どうしたの〜?」
「は!お忙しいところ申し訳ありませんが、ここいらで見慣れぬ少女を見かけませんでしたか?もしくは家の中に入っている可能性もございますので上がってもよろしいでしょうか!?」
「俺丁度晩飯作ろうと思ってたところなんだけどー」
「すぐにすみますので!」
「ヴェ、そーじゃなくて〜。ずっとこの家にいたし今までこの部屋にいたけど誰も入ってこなかったよ?二階には兄ちゃんがいるし誰か来たらすぐわかると思うんだけどなぁ〜」
「そ、そうですか。いや、ご無理を言って申し訳ございませんでした!」
「別にいーよ〜。あ、君らも晩飯食べてくー?」
「い、いえ!私どもにはまだ仕事が残されてるゆえそれを放棄するわけにはいきません。そのお言葉だけで充分にございます!」
「そう?じゃぁお仕事頑張ってね〜」
「はい。お騒がせして申し訳ありません。それでは失礼いたします!」
「はいはい」
「あ、それと、不審な少女を見かけましたら直ぐにお知らせください!」
「ヴェ〜、了解〜」

それでは、と去っていく複数の兵たちの背中を少しだけ見送ってから扉を閉めた。扉の影に隠れていた女の子が不思議そうにこちらを見上げていて、大丈夫だよ、と笑いかける。
きっとあの兵が探しているであろう少女はこの子で間違いないはずだ。助けた理由を説明しろって言われると今は出てこない。深い意味はない、と思う。
いつも何かあると助けられてばかりの自分にだって、誰かを助けるくらいのことはできる。それが目の前の女の子だっただけの話だ。

いまだに混乱していて状況を把握できていない女の子は、ぽかんとした表情で立ちすくんでいた。鼻歌を歌いながらキッチンへと戻る途中、ふと振り返って手招きをすれば警戒心剥き出しのまま、けれど確かに一歩ずつ近づいてくる。それがなんだか拾ってきた猫のようで、不謹慎にも可愛いくて笑ってしまった。


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