水を制する者・後

領内の視察に行かせた家臣が全て戻ってきて、異口同音に厳しい現状を報告した。
年貢を減免しなければならない、必要とあらば城の井戸を開くべき、秋の戦は取りやめるが良い。
とりあえずは城の井戸ではなく蔵の食糧を出してやることを決定したが、ある古参の家臣が次のようなことを言った。
人柱を立てたらどうか。殿は先頃の戦で身寄りの無い娘を拾われたと聞く。その娘は大層美しいとのこと。命を救ってやった御恩と引き換えに、奥州のために神の贄になれと命じられては、と。


重い足取りで奥へ向かう。俺の顔色を見て、女中達は話しかけてもこなかった。暗い廊下を抜けて、襖を開く。
庭に、娘が立っていた。背景の緑や花を従えるように、白く凛と。背筋を冷たいものが走る。この庭にも焼けるほどの陽射しが照りつけているというのに、どうしてこうも緑が鮮やかなのか。城の表の庭の朝顔など、枯れてしまったというのに。

「政宗様」
「美黎、これはお前の力なのか」

赤い唇を一文字にして、娘が頷く。俺も草履を引っ掛けて庭に降りた。立葵が、てっぺんまで鮮やかに開いている。

「私、神の贄となりましょうか」
「それは却下した。が、座敷童子とやらは随分と地獄耳だな」
「座敷童子?」
「お前のことだよ」
「まあ……座敷童子には角がありましょうか」

はっとして、立葵から目を戻す。娘の茶の髪の間から、白い尖ったものが二つ、覗いている。
あまりにも驚いて笑ってしまった。娘は首を傾げる。

「これでも恐れられぬとは。政宗様は豪胆でいらっしゃいますね」
「初めて見た。西の海の鬼にも会ったことがあるんだが、角は生えていなかったぜ」
「鬼……ですか」

よく見れば、口からも真っ白な牙のようなものがちらちら見え隠れしている。

「鬼じゃねぇのか?」

小娘は答えずに肩をすくめた。どうやら鬼ではないらしい。

「政宗様は、舞いは得手でございますか」
「能ならな」
「では、明日、雨乞いの舞をご披露くださいませ」
「明日?」
「死人が出ないうちに行いましょう。私の体はもう大丈夫ですから」

何故死人が出ていないことを知っているのか。だが、それも問わないでおく。

「人ではないこの身を救い、本日まで匿ってくださり、ありがとうございました。この御恩をお返ししたく存じます」

丁寧な所作で娘は角が生えた頭を下げる。ぴんと伸びた手指の先には、長く尖った爪がある。

「あなたが竜王という名乗りに相応しい方なのか、私にはまだわかりません」
「そうか。そりゃ残念だ」
「されど、あなたが治めるこの地と住まう人々は、健やかであって欲しいと願います」

幼い小さな頭が上げられた。そう、先刻までは幼かった筈だ。顔を上げた時には、もう十の娘はすっかり妙齢の女になっていた。淡い茶に見えていた目は、金色に輝いている。
俺は口笛を吹いて笑った。

「Good. こんなに美人だったとはな。お前、幾つなんだ?」
「現金な方ですね」
「色恋に人も妖も関係ねぇよ」
「私などは父の跡を継いだばかりですから、まだまだ若輩です。この度も不覚を取ってしまいましたし」

白い頬に掌を当てる。ひんやりと冷たい。この暑さには心地よい体温だ。

「明日には、お前は居ないのか」
「はい。このお城には」
「もったいねぇな。最初からこの姿でいてくれよ」
「子どもの姿でいるほうが楽だったのです」
「便利だな」
「もし……この姿を見ても、惜しんでくださいます?」

するりと、肩から白縹の着物が落ちる。最初に着ていたものを模して作ってやったものだ。
現れた肌は、人のものではなかった。長く艶やかな尾を、感嘆の息とともに見つめた。



翌日もまた朝からの上天気だった。
正午に、屋外に設けた急拵えの舞台の上に立つ。笛は小十郎、鼓は喜多、舞台のすぐ下には成実と綱元が控えている。この構えに、渋々といった様子の家臣も出てこざるを得ない。
このようなことをして意味があるのか、また殿の酔狂が始まったか、もうこの暑さはこりごりだ、本当に雨など降るのか、否、降るものか。
聞こえる雑音をかき消すように、笛の音に鼓が重なる。足を打ち、袖を舞わせた。稽古は一夜漬けだったが、時間を見つけて積み上げてきた修練は嘘をつかない。男達の後ろに居並んだ女達が溜息をついている。当たり前だ、無様な舞などしない。

曲が進むと共に、空が曇り始めた。観衆が騒めき、成実も口を開けて天を仰いでいる。綱元の顔にも明らかな驚きが表れている。
むっとするような熱気を払うように、舞い続ける。待ち続ける。美黎が約束したことだ。偽りなどない。あの娘の目は、常に真っ直ぐだった。
鼓の音がやみ、笛の音が風の音に混じる頃には、空はすっかり黒雲に覆われていた。
汗だくのまま、舞台上で跪く。

「奥州をお預かりする伊達藤次郎政宗、この舞を、龍神に捧げ奉る。願わくば、ひとたびの慈雨を頂戴せんことを」

言い終わると共に、ぽつ、と手の甲に雨粒が落ちた。見上げる空から、にわかに大きな雨粒が降り始める。

「これは……!」
「雨だ!」
「おお、お湿りだ!」
「恵みの雨だ!」

歓喜の声が次々と上がる。雷鳴と共に、刹那、白龍が天に昇るのが見えた。おおっ、とまた周囲がどよめく。何人かには見えたらしい。

「龍神だ!」
「龍神様だ!」
「さすがは筆頭! いや、竜王!」
「竜王の名は伊達じゃねぇ!」
「やはり、我が殿こそが天下に相応しいお方なのだ!」

再び、雷鳴と共に神龍の尾が雲間に覗く。白銀に輝く鱗が黒雲の中で鮮やかだ。間違いない。あれは、昨日見たものだ。


着物の下から出てきたのは、丸みを帯びた女の肢体だった。ただ、白い肌はところどころ白銀の鱗に覆われていた。柔らかな臀部からは、やはり鱗に覆われた尾が生えている。それでもしなやかな脚はしっかりと二本地に付いていた。
良く見ると、銃弾を受けた腕に腹、そして左脚は赤く腫れている。

「この度の日照りは私の不覚のせいです。申し訳ございません」
「いや……そもそもは俺達が無粋な争いを続けているせいだろう」
「争いは人の世の常ですから」

その声音には怒りも呆れも無い。突き放したような諦観がある。

「あなたのおかげでゆっくり休めました。明日には、本来の姿をお見せできると思うのですが」

眉根を寄せる美黎の頬から手を離さず、撫でた。

「そうか? このままで十分だ」
「珍しがっていらっしゃる?」
「見惚れている。だが、本来の姿とやらも楽しみだ」

そう告げてやったら、彼女は初めてにこりと笑った。白く艶やかな肌に輝きの強い金の眼、紅を差さなくても赤い唇。まさに神の贄となりそうなほどの美しさだが、その頭には真白な角が二本。

「つくづく人にしておくのが惜しいお方ですね」
「王になるべくして生まれた男だからな」
「あなたは人の世に必要です。連れてはいけませんが、陰ながらお守りいたしましょう。この力をもって」
「力?」
「水を制する力、です」


雨も雷もやまない。

「龍神、か」

奥州の、あるいはもっと広い土地の。
贄ではなく、神そのものだったとは。
雨が強くなってきた。喜び笑いながら濡れていた家臣達も、その奥方や女中達もこちらに礼を示して、屋敷の中に入っていく。

「政宗様、舞台からお降りください。雨で滑り、危のうございます。雷も……」
「少し待て」

空を見上げながら小十郎に答える。雷鳴と共に見えていた龍が見えなくなった。
まさか、このまま行くつもりか。
と思いきや、雲の間から白い顔が見える。髪の間から覗く角も。空を透かして、それこそ生きすだまのような、白縹の着物を纏った。

「美黎」

降らせた雨の中、半透明の彼女が降りてくる。

「政宗様……?」

小十郎の訝しげな声が聞こえる。どうやら見えていないらしい。

「美黎」

腕を伸ばした先に、彼女の頬がある。脚を天に向け、腕をこちらに伸ばし、ふわりと宙に舞う彼女の唇が、俺の唇に触れた。

――あなたに、龍神の加護を。

頭の中に響くような声に、微笑む。

「Thanks. 有難く頂戴するぜ」

口元を和ませて笑う彼女の思念が、消えた。龍の姿ももう見えない。それでも、己の中には確信があった。

「また逢える。絶対にな」

汗を流す慈雨の中で、願う。

***

「それで、お話は終わりなの?」
「ああ」

父上は頭を大きな手でなでてくれている。それがとても心地よく、とろとろと眠くなってくる。

「雨は?」
「それから三日三晩降った」
「父上、すごぉい!」
「すごいのは俺じゃねぇ。龍神様だ」

父上は左目を細めて笑った。かすかな灯火に照らされたその笑顔は穏やかだ。

「龍神様は?」
「What?」
「龍神様と父上はもう逢えなかったの?」
「逢えたよ」

言いながら涙の痕を指で拭ってくれる。お話に夢中になってしまい、泣くことなど忘れていた。外の雨もやんだみたいだ。

「逢えてどうなったの?」
「それはまた次の話だな」
「聞きたい」
「もう眠いだろ? 寝ろ」
「でも……」

たしかに、大きな手でずっと頭をなでられていたから、とても眠い。

「おやすみ」
「うん……」

ふすまが開く。これは母上の足音だから目を開けたいのに、まぶたが重くて言うことを聞いてくれない。
ふたりの声が遠くから聞こえた。

「眠ったの?」
「たった今な」
「父上のお話はいつも面白いと、この子が言っていましたよ」
「兄妹喧嘩の度に洪水を起こされちゃあたまらねぇからな」
「ごめんなさいね。私のせいで」
「構わねぇ。俺が今ここに在るのはお前のおかげだ」
「ふふ。今日はどんなお話をしていたの?」

母上の手がおでこに当てられる。ひんやりと冷たくて、こんな蒸し暑い夜は気持ちがいい。

「ただの昔話だ」

楽しそうな父上の声を聞いて、私は眠りについた。