■ いつもと違う君の理由

 日差しがないのにこうも暑いとは、さすが熱帯夜だ。あまりに熱帯夜な毎日のせいで正常な八月下旬がどんなものだったかもう思い出せない。つらい。じっとしているだけでも滲み始める汗に辟易しながらぱたぱたと仰ぐと、ぬるい空気がかき回された。退勤時にきれいに直した化粧がどうなっているかは考えたくもない。ああ、つらい。

 けれどまあ、暑いってのはビールが美味しいってことだから。

 あえて殊更に、擦れた大人のようなことを考えてみて、そんな自分に苦笑して。手持ち無沙汰に視線を彷徨わせてみれば、人混みの向こうに見知った顔をみつけた。
 こっちこっちと手をあげるとすぐに気づいて足を速めてくれる律儀さがくすぐったい。前回の同窓会から繋がった縁は今も健在で、本日も良き飲み友達である吉田くんとの約束なのだ。相変わらずくたびれた顔で、シャツだってよれよれで、けれどなぜだろう、近づくにつれて激しくなるこの違和感は──ってなにその日焼け。大丈夫なやつ?

「苗字!」
「やほ、お疲れ!」

 久しぶりだね元気そうだねとお馴染みの言葉を贈りあったところで、梅雨頃に会ったばかりでは実感は薄い。学生同士ならともかく、卒業以来ずっと疎遠だった関係としてはこの頻度でも充分に"頻繁"だ。

 仕事終わりのサラリーマンでごった返すビアガーデンの一角に腰を落ち着けて、冷えたビールを片手に「かんぱーい」と杯を付き合わせればいつもの飲み会の始まりである。けれど僅かに違ったことは、いつもならばそのまま飲みきる勢いでジョッキを煽る吉田くんが今夜に限ってはわたしと同じタイミングで口を離したということだった。

 半分以上残ったままのジョッキを傍に置いた吉田くんは、目を丸くするわたしに構わず鞄に手を突っ込むと、がさがさと動かした。

「えっと、これ」

 机の上にコンと音を立てて、小さな紙袋が置かれた。最近あまり見ない薄さの白い紙に、水色の印刷でぎっしりと地名が印刷されている、観光地ではよく見る類の小さな袋である。

「こないださ、部活の合宿で菅平に行ったんだ。言ったっけ、長野の菅平高原ってラグビー合宿では有名なところで──」

 にこにこと話す吉田くんは本当に嬉しそうで、シラフなのに珍しいなぁと思ったのが素直な感想である。そういえばこのあいだも楽しそうに話していた。それまでは運動部の顧問という話すら全くしなかったというのに。

「ああ、だからそんなに焼けてたんだ」
「やっぱり焼けてる……よな。いやぁ、ちょっと気を抜いたらこのざまで」

 試験の準備や集中講義で忙しくなるとは聞いていたけれど、数日かけての県外合宿にまで駆り出されるとは教師ってのは大変だなぁ。さっきとは段違いの同情を込めてお疲れさまと声をかければ、えへへと破顔された。人によってはとっくに愚痴飲み突入の話題だろうに、吉田くんはやっぱり楽しそうだ。本当にシラフかと疑ったところで泡の位置は減っていない。

「でさ、大したものじゃないけどこれ苗字に」
「ありがとう、じゃあ早速開けちゃいます」

 見るからにお土産らしいお土産を断る理由はないから、ありがたくいただいておくことにする。
 袋に納まっていたのは小瓶だった。地元産フルーツ使用と書かれたジャムは可愛らしくて鮮やかで、美味しそうで。いかにも女子受けしそうなこれを、この吉田くんがどんな顔で選んだのかと想像するとなんだか唇がむずむずしてしまう。学生時代のノリで茶化してしまいそうになるのをぐっと堪え、年相応の顔で感謝を伝える。

「わぁ美味しそ。ありがと、すっごく嬉しい」
「あー、よかったぁー」

 背を丸めて安堵の声を響かせた吉田くんは、ようやくビールを握り直すとごくりごくりと飲み干した。空のジョッキを置いてぷはぁと笑った顔は赤みが差してはいるものの瞳の奥はしっかりしている。すかさず次の注文をすることも忘れてはいない。ペース早すぎないかなとは言えない雰囲気だ。

「ますます"良い先生"って顔になったね。顧問ってそんなに楽しいんだ」
「ええ、本当に? だったら嬉しいな……なんかさ、正直言うと俺はずっと諦めていたんだ。やる気がなくて我儘で人生舐めくさってるって決めつけて、あいつらのことを見ようともせずに近づかないようにばっかりしてて……けど、そうじゃなかったんだ」

 感極まったように2杯目を煽る吉田くんは今までで一番"先生"に見えて、凄いと思うより先に眩しさに目をやられそうだと思ってしまう。

「うん、良い顔してる」

 本当に。そういうのって、格好良くてとてもいいよ。
 こんなふうにキラキラしてたら、案外すぐにお相手も見つかるんじゃないかな。
 さて吉田くんの場合はどちらになるだろう。デートやプレゼントのことをあれこれ相談されて、成立までの過程をじっくり眺める羽目になるのか、それともぱったりと連絡が途切れてある日突然"結婚しました"系のお知らせが回ってくることになるのか。
 すっかり張り慣れた予防線を改めて張りながら、ああやっぱりビアガーデンにして正解だったと自分を褒める。どこのテーブルも賑やかで、誰も彼もが騒がしい。少々黙っていても場が持つし、ペースが早くなっても雰囲気に酔ったと言えてしまう。


 けれども。いつもなら3杯目4杯目とあっという間に突き進んでとっくにふにゃふにゃになってしまうのに、こんな空間にいながらもいつもより幾分も手前で留まっている吉田くんはやっぱりいつもとは違う。
 部員たちのこと、合宿のこと、試合のこと、勝ったこと、負けたこと、大会のこと。いつもと違う吉田くんが、いつもよりずっとはっきりした口調で話すことを遠い世界の出来事のように感じながら聞いているわたしのジョッキばかりが空になっていく。

 いや、今更改めて感じるも何もなく、実際に吉田くんは遠い世界にいるし、それは昨日今日で発生した距離でもないのだ。スカートの丈を数センチいじることに一喜一憂した日々も、眠くて仕方がなかった古語の授業も、ラスボスのように恐れた期末テストも、たった1年の違いが何よりも特別に思えた対人関係も、今のわたしにとっては思い出して感傷を抱くことすら困難なほどにどうしようもなく過去なのだから。
 そんな時間を毎日毎日至近距離で見守り続ける吉田くんを別世界の人間だと思いながら、ちょっとした異文化交流を楽しんでいたのも今更だ。
 ではなぜこんなに寂しく感じているのかといえば、わかっていたはずの距離が予想よりずっと離れていたと気づいてしまったからだろうか。漠然とした"生徒たち"という括りではなくひとりひとりの顔を思い浮かべるように語る姿も、吉田くんが心酔しているという"コーチ"の話も、随分と熱が入っている。
 より親身に、より身近に、そうやって吉田くんが熱を込めれば込めるほど、うんうんと笑みを貼り付けるしかない自分の立ち位置を思い知らされるなんて、皮肉にもならない。

「──で、だからな、苗字さえよければ、今度は」

 そこで声が途切れた。直前まであんなにご機嫌だったのに、突然の失速だ。
 今の今まであった饒舌さはどこへ行ったのか、右へ左へと視線を彷徨わせるばかりで続きが出てくる気配はない。
 こういう空気が苦手なのはわたしだけじゃないだろう。自分がなにか失敗したのかな、反応を間違えちゃったかな、そんな不安はあっという間に頭を占める。どうしようどうしよう、いや、そもそも心当たりがないのだから、ここは酒の席として流してしまおう。気づかないふりで次の杯を渡して、それでもだめなら更にもう一杯。名付けて「さっさと"なまえちゃん"呼びになるまで潰してしまおうか作戦」だ。
 ……結論としては、この作戦は実行しなかった。まあまあいいじゃん次飲もうよ次行こうよと言いかけて、吉田くんの手が硬く震えていると気づいてしまったから。ジョッキを握ったままの手の甲には太い血管が浮かんでいる。膝のあたりに置かれたもう一方の手は見えないけれど、二の腕の様子からすると似たようなものだろう。茶化してはまずい雰囲気だが、怒っている様子ではない。大の大人が見せる珍しい姿に、そうまで言い難い内容とは一体なんだろうという興味がわいてくる。たとえ自分が糾弾される展開だとしても、聞けないより聞けた方が実りがあるんじゃないかな。

「苗字さえよければ、その、な。つ、つ、次の休みに出かけないか!?」

 やっとのことでもたらされたそれは、どこから出したのかとツッコミたくなるようなひっくり返った声だった。けれども真剣なことだけは十二分に伝わってくる。
 飲みの席にあってそこまで緊張するほどのことなのかと拍子抜けするようなお誘いだけれど、ここまで言い渋ったことからも余程の思いが籠められていることは明らかだ。つまり、吉田くんの人生において重要なことで、失敗したくないことで、もっと言えばわたしに頭を下げてまでどうにかしたいという事柄だということで。要は原点回帰だ。
 きっかけを考えればとっくにこういう話になってよかったところを、わたしより簡単にマッチングしそうな男性側の実情が癪という心の狭さゆえに言及してこなかっただけ。居心地の良さに甘えた狡さのツケがここで回収されるわけですね、なるほど。実はもうそっち方面でも動き出していたわけか。だったら、いよいよ来るべき日のデートプランについての相談だろうか。仕方ないなぁ、このなまえさんがきみの婚活に協力してやろう。

「いいね、どこ行こっか」

 端的に言えば、寂しい。でも、ようやくわたしのフィールドに降りて来た吉田くんを歓迎する気持ちも確かにあった。教師の仕事にできるアドバイスなんて持ち合わせていないけれど、こっち方面なら自信がある。そりゃ、結婚こそしたことないし、恋人も今は切れているけれど。もう一歩なところまでは進んだし、友人や同僚のおかげで話題には事欠かないのだから。
 
 真っ赤な顔の吉田くんが、やっといつものようにふにゃりと笑った。



(2017.02.03)
[ / 一覧 / ] 

top / 分岐 / 拍手