■ 10月某日

 冷蔵庫にもたれかかり何本目かのビールを開けながら、三沢満善は内心頭を抱えていた。
 吉田春の兄への態度が(あるいは吉田優山の弟への態度が)ほんの少し変化を見せ始めた頃からちょこちょことこういう機会はあった。だが、さすがにこれはどうしたことか。リビングで酔うがままに笑い転げるのはいつだって勝手に上がり込んでくる旧知の二人の専売特許のようなものだったが、今日はそこにもう一人追加されている。すっかり軽くなった缶を片手にケラケラと声を上げるのはどう見たって、男ではない。

 男所帯に平然と足を踏み入れる神経も疑うが、連れてくる方も連れてくる方である。

 満善が知る限り二人ともそれなりに節度や常識という言葉を知る人間ではあったし、少なくともそのうちの一人は口だけは無駄に達者で隙あらば口説く女好きのナンパ野郎だが、その実いつだって軽口と同じだけの軽薄さしか相手には与えない男だった。
 そんな彼らをここまで手懐けた苗字なまえという女への興味は全くない……と言い切ってしまえばそれもまた嘘になるのだが、かといって自宅に招く程に親しく付き合いたいわけではない。少なくとも現状の、わりと頻繁に来店しては毎度毎度打てないボールに向かってバットを振る常連客と店長という間柄で十分満足していた。

 そしてまあ、初対面の時に鉢合わせた不審者を撃退した(らしい)ハルに対する感謝という形で、ことあるごとに彼らに菓子やジュースを差し入れてくれることを有難いが申し訳ないのだと伝えた時に「高校生ってなんでも喜んでくれるから買い甲斐があって……」と力説されて懲りたところがある。
 ちなみにそれは気が付けばもう一年以上前の事で、つい面倒さに負けて頷き保護者公認としてしまったばかりに、当初はハルとその彼女だけだった筈が今ではあのあたりと漏れなく顔見知りである。ジュースを飲む少年たちを眺めながら若い子っていいですねー潤いますねーとしみじみ言われても返答に困る。さすがに「"どいつもこいつも"高校生が好き過ぎだろう」という言葉はなんとか呑み込んでいるが、そろそろ口に出してしまいそうなところだ。

 ……そう、気前も良くマナーも良く通いも頻繁で、一部を除けば極めて"いいお客さん"ではあるのだが。
 さてさてどうしたもんかねえとリビングを見やれば、一体何が面白いのか放送中の映画を肴にしてあーだこーだと盛り上がっていた。

「──ほら、そうなんだよ。女の人ってちょっと人目がなくなるとすぐにこういうこと言うでしょう!」
「いやぁさすがに十把一絡げは……まあ、そりゃさすがに極貧はごめんだけどさ。わたしはとりあえずそれなりに食べて住んで生きていけたらいいかなー」
「ほおぉ、これはこれは! 優山さんへの態度からもしやと思っていましたが、やはり本格的に玉の輿は諦めていらっしゃると! まだお若いのに! 今ならまだ間に合うかもしれないのに!」
「安藤さんてばうっさいよー。そういうガワ重視はもっと若い頃に卒業したのさ」
「だってさ、満善もちゃんと聞いてた? 凄いね、世の中にはなまえさんみたいな欲のない人もいるんだよー」

 いきなり飛んできた球を「オレに振るなっての」とワンテンポ遅れて投げ返す。困ったように笑う顔がこちらを向くが、サングラスに甘えて気が付かないふりをする。ごくりごくり喉を動かしたところでビール程度では乾きは癒えない。
 彼女と安藤はどうか知らないが、少なくとも優山が酔った頭で忍ばせようとした内容くらいには察しがつく。彼への借金や、ハルの面倒をみるので手一杯と言いながらひとりでいる自分に、彼は彼なりに思うところがあるのだろう。そんなことを気に病む必要など全くないというのに。
 けれど、優山が面と向かって言ってこない以上、自分の側からそれを説明しにいくのも違う気がするのだから物事というものは簡単ではない。

 さてこのままでは盛り下がってしまうだろう優山をどうしたものかと考えかけたところで、救いの手は意外なところからもたらされた。

「あらら、だから優山くんはかわいいって言われちゃうんだからー」
 そう言ってぐにゃりと身を乗り出したのは、他でもないなまえだった。
「こういうのは、むしろかなり"欲深い"と見た方が失敗しないんだから。贅沢しなくていいどころか、"苦労してもいいような"相手と結ばれたいなんていう女は正直、女子会ではドン引かれる案件よ? 厄介も厄介、わたしだって余所では言わないよ?」
「え、じゃあいつもは何て言ってるんです?」
「そりゃまあ迎合するよね。総務の永田さんが格好良いとか、旦那にするなら洲崎部長みたいな人がいいね、とか」
「……うへぇ。女の人ってやっぱり怖い」

 辟易する可哀想な若者を挟んで、彼女と安藤は顔を見合わせニヒヒと笑い合っている。そうしていると類友というか、悪友同士に見えなくもない。女の手にあの指輪がなければ、実は似た者同士の恋人なのだと言われても納得しただろう。そんな風にぼんやり思っていると、満善さーんと手招きされた。
「こっちこっち、早くこっちで飲みましょうよ。もうすぐお楽しみの濡れ場ですよー!」
 そんな風に呼ばれて行けると思うのか。けれど他ならぬ三人ともが目を爛々とさせて待機の姿勢をとるのだから、まったくどいつもこいつもと呆れてしまう。「やっぱ満善さんも好き者っすねぇ」と笑いかけてくる背中を足蹴にすれば、いったい何がツボに嵌ったのかなまえがまた笑い始めた。酔っ払いばかりの中で理性を保ち続けても損をするだけである。


  ***


「ごめんなさいね店長さん、急に押しかけちゃって。まさか言ってないなんて思わなくて」
「……いや、まあ。こっちこそ、なんのお構いも出来ませんで」

 散らばった缶や菓子の袋を片付けながら、すっかり酔いの醒めた二人は今更ながらに頭を下げ合った。いつもこうなんですかと彼女が目をやった先では、沈んだ方の二人が気持ち良さそうに眠りこけている。安藤は起き抜けに多少ぐずるくらいで済むだろうが、優山は二日酔いに苦しむだろう。予想のまま告げれば、なまえは失敗しちゃったなぁと苦笑する。そういうなまえも相当飲んでいた筈だが、今では呂律も足取りもしっかりしている。思い返せば最初に「酔っているな」と思って以降、ほとんど変化が見られなかったのではないか。
 お強かったんですねと言えば、酔い始めるのは早いんですけどとだけ返されて会話が途切れた。なんとなく、やりにくい。
 それきりまた黙々と片付けを続けていたのだが、ふと、伏せた眼差しの隅にきらりとした輝きが映り込む。何気なく向けた視線が辿り着いたのは、ひとつふたつとゴミを拾い上げていたなまえの指だった。

 ──それ。

 どうしましたかと声をかけられてようやく、自分の口が動いていたことを知った。けれどここで何でもないですと返すのも不自然で、少しだけ迷って続きを口にする。
「苗字さんのその相手は、"苦労してもいい"と思える相手なんですか」
 いざ口にしてみると頭の中で呟いた時よりずっと青臭く響いて、カッと目元が熱くなる。サングラスに感謝するのはこういう時だ。もっとも、そんな機会はもうずっとなかったのだけれど。

「そうですよ。この人となら、この先ずっと苦労しても幸せだろうなって思えた人です」

 そう言って微笑む姿は凛としていて、差し込み始めた光の中で眩しく輝いていた。無防備な微笑みだ。けれど隙だらけなようで、実際の所そこには僅かな隙も見つけられない。不意に、優山が彼女を求めることに合点がいった。ただでさえあの家庭環境な上、あの顔で、更にここ最近は不倫騒動の火消しに駆けずり回っている優山は薄っぺらな好意に辟易している。誰も彼もが軽率に心を傾けたり揺らしてくる中で、たった"ひとり"を想い続けるなまえは興味深い存在なのだろう。少なくとも、こうしてたまの息抜きに呼び出すくらいには。
 けれど、それならそれでどうしても無視できないこともあるわけで……できれば藪はつつきたくないのだが、身内として踏ん張ることにする。
「……でも、ならこんな男だらけの飲み会に来ちゃったら怒られるでしょう」
「うちはいいんですよ。お互い、友達付き合いは何をおいても大切にしようと常々言い合ってますし。それに、優山くんったら一筆書こうかって言ってくれたんですよ」
「一筆?」
「『何かあったら責任を取ります』って、わざわざ。可愛いでしょう?」
「はあ」

 ……本当に、よくもまあこれほど手懐けたものだ。あまり正直には言えない感想をのせて噴き出せば、夢の中まで届いたようで優山がむにゃむにゃと口を動した。
 振り向いたなまえがくすりと笑い──けれどもすぐに微笑みを翳らせる。

「でもね。もう一年以上経つのに当たり前の顔で"慰謝料"って言葉を出されるのは、……そういうのは、なんだか悲しいですよね」
「苗字さん、あの、こいつはそういうとこがちょっと特殊っていうか、別に苗字さんを信用してないとかそういう意味じゃ。特にその……ご存知かとは思いますが、その、家の方が最近ちょっとバタバタしていて……」
「あああ、ごめんなさい。そういうのは分かってるつもりなんですけど、でも、あの、えっと。とりあえず、楽しそうだったんで安心しました」

 なまえとしても、そこまで話す気はなかったらしい。早口で手を振った後、諦めたようにふにゃりと笑って「内緒にしてくださいね。あの……これ捨ててきますね」と台所へ駆けて行った。逃げるようではあるものの、その背中に失言を隠そうとする必死さは窺えない。むしろ恥ずかしいことを言ってしまったと決まり悪そうに頬を掻く横顔は、満善という男の認識にささやかな変化をもたらすには十分なものだった。

「あの、こんなむさ苦しいとこでよければ、ぜひまたどうぞ!」


 もし"次"があったとしたら、今度は歓迎できるだろうから。



(2016.12.28)
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