■ 2(始めましては海の上)

 力が欲しかった。もっと、もっと、力が欲しい。
 子供の頃から、私はそればかりだった。

 広くて狭い私を取り巻く世界の中では、"神様"は"姉"という姿で存在していた。
 完璧な英才教育によって唯一無二の完璧な"道具"として調整される筈だった私という末妹を、彼女は"人"のままでと望んでくれた。だから、多くの子供の中で私だけが知る事が出来た。姉という神様の寵愛を受け、神様に許されて生きられた私だけは、気づく事が出来た。

 自分の居るこの場所が決して理想郷ではないことも。こんなに醜い世界でも、姉だけは綺麗だという事も。

 けれど、私は結局のところ甘かった。
 仕事に出ては、彼女の望むように下界の匂いを持ち帰り、褒められる。そんな日々に幸せすら感じていた私は、実に甘く、愚かだった。彼女が、自身を取り巻いていた全て、つまりあの世界自体を憂いていたことに気が付きながらも、何もしなかったのだから。

 私が愚かだったから。だから、姉も世界も失った。
 自分を取り巻く全てに辟易していた彼女は、ある日ついに、全てを道連れにしようと立ち上がった。屋敷も人も、本家の人間も使用人も関係無く、その強大な力により屋敷を離れていた者たちまで全てを握りつぶした神様は、私だけは連れて行かなかった。

 昔は、大好きな姉の為に力が欲しかった。
 あの日以降は、自分の為に力が欲しかった。
 何かの間違いのように生き残った私が、それでも笑って生きるための、自信が欲しかった。



  ***



 港を離れて数十分。倚門島へと向かう船にひらりと降り立つ影があった。
 突如現れた見知らぬ気配に、神経を尖らせていた明神とガクがぴくりと反応する。同じ瞬間、年長者の二人は顔を見合わせ苦笑いを浮かべていた。

 年長組の浮かべる表情に気が付かないまま、敵の襲撃かと甲板へと急いだ明神たちが見たものは……一足先に甲板に出ていた湟神澪と、彼女に抱き付く一人の若い女の姿だった。しかも、女は泣いていた。年甲斐もなく、泣いていた。

「うわーん、澪ちゃんだぁぁぁ。よかったぁぁぁ、ちゃんと腕付いてるぅぅぅぅ」

 えぐえぐと泣きながら、大丈夫?感覚ある?私の体温わかる?と嗚咽の合間に質問を重ねる女と、その背中を優しく撫でてやる澪の姿の姿に男二人は言葉が出ない。遅れてやってきた年長組に続き、何事かとやってきた姫乃やエージたちの注目を一身に浴びながら、女二人はある種の異天空間を作動させていた。

「つーことで、こいつがなまえだ」
「やほー、なまえでーす。頑張っちゃうよー」
 にへら、と手を振る女は、もう泣いてはいなかった。

「よろしくねぇ姫乃ちゃん。可愛いねぇ。災難続きで大変みたいだねぇ。でも、おねーさんが来たからにはもう大丈夫!って、うわぁ、お肌すべすべ! ……でもちょっと疲労の色が見えるねぇ。よしよし、おかーさんちゃんと取り返そうね。よし、じゃあとりあえずは誓いのちゅーを一発……ってああ! なんで澪ちゃんが邪魔するの!?」
「おい冬悟! 今のうちに姫乃を脇へ避難させろ!」

 ゼロ距離に在った二人をべろりと引き離した澪が、あんたは本当にもう!となまえを叱り飛ばす。途端に、しゅんとする女。少し可哀想な気もするが、これでこの後の顔合わせは滞りなく進む……と思われたのは、途中までだった。

「うわぁぁぁアズミちゃん超可愛いねぇ。おいでーおねーさんが抱っこしてあげよう。うふふふ、いいねぇ。ぷにぷにだねぇ。そうだアズミちゃん、いい子のアズミちゃんは今夜はおねーさんと一緒に寝ようか。うふふふふ……って、ちょっと正宗君! 突っ込むならちゃんと言葉と態度で突っ込んで! 無言でこんな風に遠慮なく割り込まれると、さすがのなまえさんでも傷付いちゃうよ!」
「……お前なぁ。ったく、変わんねぇにも程があるだろ」
「うーん、と言うよりはむしろ、悪化しているんじゃないかなぁ。……まあ、今日のこれはほぼ澪ちゃんのせいと言えるだろうけど」

 正宗と白金が盾になっている間に、エージとツキタケがアズミをそっと後ろへやった。
 最初こそ、ああ酷い!と声を上げたものの、なまえは結局それ以上食い下がることは無く、今度は二人と親しげに会話を楽しむ自由っぷりを見せつける。


  ***


 なんとなく味方という事はわかるものの、人間的にどう判断したものか。
 そんな感想が滲むギャラリーの視線を感じた澪が、パタパタと手を振って答えたことは──
「あー……まあ、ご覧の通りの味方だ。あの子の身元と実力は私たちが保証するから、安心してくれ。普段は一応、もっと大人しいし、ちゃんと信用できるいい奴なんだが……その、まあ、多少うざい所もあるしおかしな奴ではあるけど、基本的にはただの寂しがりやだから。あんたらも、たまには付き合ってやってくれ」

 寡黙な正宗の肩をバシバシと叩きながら白金とテンション高くやりとりをしているなまえに聞こえないように、澪は声量を押さえて言い含める。

 けれど、その言葉を真正面に居ながら全く聞いていない男が一人居た。
 ぷるぷると震えるコートに気が付いたツキタケが恐る恐る見上げると、やはりと言うべきか男の視線はただ一人を真っ直ぐに見つめていた。それはもう、穴が開く程にじっくりと、じっとりとした視線で見つめていた。

「おいこらガク、調子に乗るなよ」

 気が付いた澪の制止も聞こえない様子で、ふらふらと歩き始めたガクはあっという間に加速し、次の瞬間にはもう距離を詰めてしまう。



  ***


 おや、となまえの視線が、白金からガクへと流れた。

 澪から紹介を受けた時は始終無言で反応も無かったというのに、突然この行動。さすがのなまえも素直に驚いていた。てっきり自分に興味が無いと思ったら、今になってこの熱視線である。
 とはいえ、困惑していても状況は変わらない。仕方が無いので、人懐っこさを総動員して「よろしく」と再度笑顔で声をかけてみるものの、ガクの表情は変わらない。

 反応の無い無愛想な幽霊に内心嘆息したものの、焔狐や陰の要素を持つ陽魂などの前情報だけでも、かなり興味を惹かれた霊魂である。失礼な態度に腹を立てることもせず、むしろ対象の反応が無いことを幸いと、手を伸ばせば届くような距離にありながら堂々とガクの全身に視線を這わす。
 どれくらい、そうしていただろう。
 動かない二人に周囲が業を煮やす直前に、ガクが動いた。揺らぎもしない三白眼が一歩の距離を詰めた事により、なまえもさすがに今のはいささか不躾だったと首を振り、再度話しかける。

「ガク……でいいのかな。そんなに見つめられると、恥ずかしいんだけど」

 全く恥ずかしくなさそうな余裕の笑顔を浮かべたなまえを前にし、ガクは眩暈でも感じたかのように、ゆらりと大袈裟にふらついた。細身の体はそのまま手を突くことも無く地面へと倒れるのかと思われたが、すぐに重力など存在しないような不自然な動きで体勢を立て直す。
 そして男は……愛に生きるガクという幽霊は、そのままなまえを凝視しながらゆっくりと口を開いた。


「結婚しよう」

「えーっと。まあ、いいけど」


 …………。

 数秒の沈黙の後、船には一同の叫びが響き渡った。



(2014.08.07)
[ / 一覧 / ] 

top / 分岐 / 拍手