■ 暑中お見舞い申し上げます

 ギラギラ照り付ける太陽がアスファルトを照らすせいで、上からも下からも焼かれた空気が行き場もないまま溢れるだけの昼下がり。開け放たれた窓の外では、ミーンミンミンと命の叫びの大合唱である。

「ねぇ冬悟。ここってさぁ、いい加減にエアコン設置の予定は無いわけ?」
「窓を開ければ風がある! エアコンなんて金食い虫が無くたって充分!」
「いや、最近のエアコンって随分高性能だし。そんなに電気代だって……って、ちょっと、ごめんって。そんな悲しい顔しないでよ。……っていうか、だったらせめて網戸の補修くらいしたらどうなのよ」
「そんなことを言うがなぁお前、直しても直しても際限なく穴を開ける馬鹿共がいるんだぞ。いちいち直す俺の身にもなってみろよ……もういいかって気にもなるだろう」

 そう嘆く明神冬悟は、本当に疲れた表情をしていて……さすがに少しばかり気の毒に思えた。

「……だってさガク。暴れるのはほどほどにしなさいよねー」
「ああすまないなまえ! まさかこうしてなまえの肌を危険にさらすことになるとは……! ああ、俺は何と罪深いことを! しかし安心してくれ。マイスウィートのことはオレがこうして守っている!」

 聞いてた?と背後を忙しなく動き回る幽霊に声をかけた答えがこれだ。
 相変わらずのテンションで、答えとしては非常に彼らしい返事なのだけれど会話としては見事に成立していない。あまりに相変わらず過ぎて、別段これ以上かける言葉も見つからず「そう。よそ見しないで頑張ってね」と投げやりな返事をしたら更に奇声が上がった。この人の喜びポイントがどこにあるのか未だによくわからない。

 まったくもう好きにしなさいと溜息を吐いたところで、正面に座っていた冬悟の視線が非常になんとも言い難い、困惑したものになっていることに気が付く。

「何よ。別にね、自分だけ団扇を使うのが申し訳ないって気にしているのなら、遠慮なく私を煽いでくれてもいいのよ」
「……ちげーよ。つーか、そこらへんの団扇を適当に使ってくれって、俺は先に言ったよな?」
「でも、ここにある中で一番分厚くてしっかりしていて涼しいのは冬悟が使っているそれでしょう?」

 無料配布の宣伝ものばかりとはいえ、その中でもクオリティの差は歴然だ。
 冬悟は手を止めて団扇をじっと見つめた後、わかったよじゃあお前がこれを使えと言ってそれを差し出してくれた。人肌のぬくもりと水気を備えた柄をさりげなく拭いてから、さっそくそれを動かし気休め程度の涼を得る。あーあ、やっぱり暑いわ。

「いや、そうじゃなくてだ。なぁなまえ、こいつは何をしているんだ。なんでさっきからお前の周りをぐるぐる回っている?」

 その視線の先に居るのは、今も右へ左へとうろうろしているガクだ。
 私に訊ねたということは、当人には聞くだけ無駄だとわかっているのだろう。賢明な判断だと思う。だって、無駄なやりとりで熱を上げることほど不毛なことはないのだから。

「蚊に刺されるの、嫌なのよね」

 簡潔にして明瞭に答えたならば、間抜けな顔が返された。

「なんだそりゃ」
「まあ、好んで蚊に刺されたがる人なんて居ないだろうけど。……別にいいのよ、血くらい少しあげても。でも痒いじゃない? あの痒さがなんかもう、恩をあだで返された感じがして嫌よねぇ。しかも小さいのに煩いし、なかなか見えないし、苛々するじゃない」
「……だからってお前、こいつを蚊取り線香にしようってのは、さすがにどうかと思うぞ」

 あら、その口調では、まるで私が外道だとでも言うようじゃないか。とんでもない。

「ちょっと冬悟、誤解しないでよ。赤い痕を見つける度にメーターが振り切れる勢いで嘆いたり怒ったりするのはこの人自身なんだから。虫刺されごときでいちいち『よくも傷物に!』とか言われる身にもなって欲しいわ」
「虫刺され『ごとき』だなんてとんでもない! あいつら、なまえの手や足や……それだけでは飽き足らず、あんなところやそんなところにまで! ああ、なんて羨まし……じゃなくて、憎い! 虫の分際でよくも! 万死に値する!」

 すかさず割って入ってきたガクをさらりと無視して、ね?と冬悟に視線を送る。

「欠点は、見ることは出来ても追い払うことも潰すことも出来ない、ってとこなんだけどね」

 感情のままに蚊一匹をいちいち巨大ハンマーで追い回されたら周囲の被害は尋常ではない。
 さすがにそれは止めてとよくよく言い聞かせて理解はしてもらえたが、代わりに蚊が居る場所や止まった場所を逐一聞いては私が動くことになった。先ほど冬悟は蚊取り線香だと言ったけれど、実際のところは蚊取り線香以下の性能である。
 幸いにもこの部屋では事前に使った虫よけスプレーと体温の高い冬悟のおかげだろうか、私のところへ来る蚊はいないようで正直助かっている。そうでなかったら今頃、絶え間なく聞こえる羽音と怒声に頭を抱えていた筈だから。

「だからってわけでもないけど……ねぇ冬悟、もう一回聞くわよ。こんなに暑いのに、エアコン付けないの?」

 あ、窓の向こうをアズミちゃんがセミを追いかけいった。子供はいつも元気で可愛いなぁ。ああ、なごむなぁ。

「……金が、無い。ただでさえ家賃収入が期待できないってのに、どこから出すんだよ」
「でもさぁ、男どもはいいとしても、さすがに姫乃ちゃんと雪乃さんはねぇー」

 生身の乙女には、この環境は辛いだろう。
 あと、たまに来る時用にと借りっぱなしにしている私の部屋にも、一台付けて欲しいものだ。正直こう暑くてはとても居付けない。

「……いや、でもまあ、暑い暑いって言いながらでもなんとかなっているし……」

 そんなことを言っても。こないだ会った時だって、姫乃ちゃんったら無防備なカップ付キャミ一枚だったのに。いくらなんでも乙女が白昼堂々あんな恰好で出迎えてくれる程に暑がっているのは、目の保養ではあるものの道徳的にはよろしくなく……って、あれれ?
 ひょっとして、と脳裏に光るものがあった。まさか、という思いもあるけれど、浮かんだ疑惑はやっぱりちゃんと確かめないと。ある種の使命感すら覚えながら、冬悟を見る目に鋭さを込める。

「ねぇ、ひょっとして……これ幸いと、暑さで無防備になっている薄着の女の子を愛でようなんて、気持ちの悪い思考は無いわよねぇ?」

 随分と窺った表現になるのも無理はない。
 意図を理解した冬悟の顔がひどく歪む。

「おい! オレは、別に、そんなやましいことは思ってないぞ!」
「……ねぇ、ガクはどう思う? 薄着の姫乃ちゃんにムラムラするわよね?」
「まさか! いや、ひめのんは確かに可愛いが、けれどオレにはマイスウィート以上に目を奪われる女性など居ない! オレはなまえが薄着だろうが厚着だろうがムラムラするから大丈夫だ! オレの主食かつおかずかつデザートはなまえだけだ!」
「ねぇガク、いいこと言ってるつもりだろうけど、最低」

 会話のキャッチボールが成り立たないのはいつものことなのでにっこり笑って切り捨てる。が、いつもなら途端にしょんぼりしそうなのに、今日の彼は一向に沈まない。暑っ苦しいコートを翻して、昂った気分のまま「うおおお」と元気に飛び出して行ってしまった。
 あーあ、蚊から守ってくれる話は、いったいどうなったのだろうか。

「……お前らも、相変わらずだな」
「そうねぇ。あそこでへこんでくれたら、私の主食もおかずも貴方だけよって言ってあげるのに。惜しいわよねぇ」
「頼むから、そういうよくわからんことを姫乃の前で言うなよ」

 心底疲れたと息を吐く冬悟に、私はくすりと笑った。


  ***


「で? そろそろ本題に入ろうぜ。あいつが居ない平日の昼間を選んでわざわざ来たってことは、ただ憩いに来たわけじゃ無いんだろう?」

 途端に下がったトーンと共に、やけに鋭い瞳が向けられる。
 薄々思っていたことだけど、この男の私に対しての認識については一度とことん膝を詰めて話し合う必要がありそうだ。

「いや別に。まあ、今週末からちょっと地方の仕事を言われててね。ガク共々留守にするよって話と、ツキタケたちがどうするかなーって確認をしにね。案件的には一応は安全と言える範囲だけど、あの子たちが来たいって言うのならそれなりの用意もしなきゃいけないし」

 ……って、うわぁ。包み隠さず真っ正直に話しているのに、なんだろうその目は。
 まあ、さあ。確かに目的はそれだけでも無いのだけれど。

 相変わらず訝しげな視線を送る冬悟の前で、ごそごそともう一つの目的を伝えるべく鞄をかき回す。
 ほどなくして私が取り出したのは、某銀行の名前が印刷してあるちょっと分厚い封筒である。

「あと、はい。忘れそうだし、今度は半年分まとめといたから。朝方これの用意で銀行まで行って、そのままここに来たってことで。どう? 納得してもらえるかしら?」

 諭吉さんがたっぷり入った封筒を受け取った青年は、打って変わってキラキラ輝く瞳で私を見つめてきた。挙句、その目がなんだか潤んでいたので、あまりの不憫さに無駄に胸が痛む。直前までのりりしい姿はどこへ行ったのやら。


 ……まあ、人間願望までもが居ついたこのうたかた荘では、当面新しい「生きている」住人は期待できないだろう。いっそもう、幽霊相手にも何かしら対価を求めればいいと思うし、私だったらきっとそうするのだけれど。しかし生憎、このお人好しの案内屋はそんなことを言うような柄では無いのだ。とんだお人好しだ。そんな風にお人好しだから、こちらもついつい手を貸したくなってしまう。とんだ人たらしだ。

 あーあ、姫乃ちゃんも大変だなぁ。



  ***


「おかえり。どこも壊して無い?」

 決まりだからなと領収書を取りに出て行った大家と入れ違いに戻って来た恋人に声をかけると、こくりと頷きが返される。

「ツキタケに、行って来るってちゃんと言った?」
「ああ。いってらっしゃいと言われた」
「……おや、意外。寂しいねぇ?」

 冗談めかして見上げると、これまた意外や意外。
 てっきり弟分の兄離れに衝撃を受けているかと思いや、甘く細められた目がこちらを向いていた。

「ツキタケにはツキタケの道があり、友があり、愛がある。オレがオレの愛を見つけたように、ツキタケがオレと居ること以外にも大事なものを見つけたのなら……オレはそれを喜ぶだけだ」


 そんな言葉をさらっと言ってしまう姿が、なんだかとても格好良い……なんて思ってしまうのは私もまた暑さのせいで頭がおかしくなっているからに違いない。
 ああ、だから、どうか。

 火照り始めた顔に、この愛しい幽霊が気が付くことがありませんように。



(2014.08.17)
(ラブラブカップル成立中な明神は、姫乃ちゃんに対しては「ひめのん」、他の人に言う時は「あいつ」「姫乃」だといいと思う)
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