■ 甘やかして!

「仕事、辞めようかと思ってさ」
「……ふぅん。まあ、いいんじゃないの?」

 すっかり癖になっている濃いクマで縁取られた目を柔らかく細めて、笹塚さんがあっさりと言った。
 ふわりと伸ばされた手が顔にかかった髪を一房耳にかけたかと思えば、すっと動いて何度か優しく頬を撫でてくれる。その少しかさついた働く男の手があんまりにも優しくて、一瞬ほうっと意識を持って行かれそうになったけれど……流されてしまいかけた自分がすぐに恥ずかしくなって、目を伏せる。
 流されるわけにはいかない。だって、話はまだ終っていない。
「なんで、とか、もうちょっと頑張れば、とか……言わないの?」
「え、だって。なまえがそういう言い方をする時って、大体もう充分考えて結論を出して、それを報告するときじゃない?」
 不思議そうな瞳であっさり返されてしまい、正直拍子抜けだ。っていうか。その言い方だとまるで、私が頑固だったり、他人の言葉を受け入れない人間だったりするように思えてならないんだけど?

「それに。結構前から、無理してるなって感じだったし」

 頬から頭に移った手が、子供にするように優しく髪を撫でてくれる。思わず、鼻の奥がツンと熱くなった。ああもう、なんでそんなに穏やかな声を出すのだこの人は。狡い。こんな風に女を甘やかすことができるなんて、狡い。そんなことを思っていると、今にも潤み初めてしまいそうな目をぐっと我慢しているところを真正面から、しかもよりにもよって至近距離で覗き込まれてしまう。それも、わざわざ身体を折って覗き込んでくるのだから本当に狡い。タチが悪い。
 おまけに私が反射的に可愛げのない言葉を放つ前に、実は意外とよく動く笹塚さんのその口よりも更に更に雄弁な瞳で見事に私の言葉を封じてしまうのだから酷すぎる。みるみる込み上げる熱い涙を自覚すると共に、耐えることも出来ずどうせ数秒後にはぼろぼろと水滴を零してしまうだろう自分の姿まで容易に想像ができてしまう。
 そんな不甲斐なくて格好悪い姿を見られたくなくて、なんとか顔を背けようと咄嗟に身を攀じれば早くも潤み始めた視界から、いち早く笹塚さんの顔が消えてくれた。そして──代わりに、暖かい体温にぎゅっと包まれた。

「大丈夫。大丈夫。お疲れさん」

 後ろから発せられる低い声が、じんわりと脳に入り込む。
「……なんで、そんなに優しくするの」
 年甲斐も無くしゃくりあげながら尋ねる私は、本当に格好悪い。こんなの本当に子供みたいじゃないか。きっと、落ち着いたらこんな姿を晒したことを後悔するに違いない。どうしようもなく特大の自己嫌悪に陥るだろうという事まで充分予想した上で、それでも耐えられなくてひっくひっくと喉を軋ませる自分はとんでもない大馬鹿者だと思う。けれど、やめられないのだ。

「仕事柄、頑張り過ぎてぼろぼろになった人間はよく見るからさ……。なまえはもっと、仕事仕事じゃなくってさ、ちゃんと今を生きなきゃ勿体ないってこと、前にも言ったと思うけど?」

 大きな手で背中をそっとさすってくれる笹塚さんは、やっぱり優し過ぎると思う。そんなに、私を甘やかしちゃ駄目だよ。
「なんで? 俺からすれば、なまえはもう少し自分を甘やかせばいいのにって感じだけど。……こらこら、そんな声出すなよ。まあ、気を抜こうとして変に力むくらいなら、なまえはそのままでいいって。その分、俺がお前を甘やかすんだから」
「……じゃなくて、あの……次の仕事、まだ見つけて無いの」
 ああもう、だから。そう優しくされると、私は困ってしまうのだけども。笹塚さんの腕の中はいつだって優し過ぎて、特にこんなささくれた気分の時はどうにもおさまりが悪い。だって今の私はどう見たって、甘やかしてもらえるようないい女じゃないんだから。何か言おうと思うのに言葉が出なくて、結局また駄目さの上塗りを重ねるだけで終わってしまう。

 たっぷり溜まった有給休暇を使い果たしてからの退職だけれど、でもその期間に次の仕事が見つかるなんて──そう上手くは行かないだろう。それに、それ以上に、正直、スーツから少し離れて気ままに遊んでみたい、なんて。そんなことを考えてみたり、なんてして……。
 ああ、どうしよう。こんなことを思ってしまうなんて。これではまさに、笹塚さんに言ってもらうまでもなく、自分を甘やかし過ぎているってことじゃないか。ごめんなさい笹塚さん。あなたの恋人は──怠惰の味に興味があります。
「それがなんで駄目なの? 息抜きしようって思えたのなら、いい傾向だと思うけど」
「いや、でも、その、ニートだよ? 刑事の恋人がそれはちょっと……でしょ?」
 詳しくは知らないけれど、なにせ組織が組織である。お付き合いってだけでも外聞が、とか色々あるんじゃなかったっけ。
「いいんじゃない? それにほら、俺も出世コースってわけじゃないし」
「けど」
「こらこら。だからなまえはあれこれ考え過ぎなんだって。せっかくのんびり出来るってのに、そんなに次々自分を追い込む思考をしてたら肝心の心が休めないでしょ」
 もう、と優しい目のままで漏らされる苦笑が耳にくすぐったい。
 でも、だって。自分だって。

「……自分だって、ろくに休む暇も無く働いてるくせに」

 今日みたいにゆっくり会えるのも久しぶりのことだし、そもそもここ数週間は忙しいというから連絡すらまともに取っていなかった。いや、もちろんそこに不満は無いのだけれど。そりゃもちろん、ちょっとの寂しさはあったけど、でも、これに関しては「全く平気だ」という方がこの場合はどうかしているだろう。
 ……ああ、違う。そのことはいい。っていうか、そんな久しぶりに会えた日だってのに、私は笹塚さんに気を回させて──何をしているんだ一体。けど、今度の機会に伝えるとなったら「辞めました」という事後報告になるだろうことも想像に難くない。そう思えるくらいには、この笹塚衛士という男はいつも多忙で過酷な状況に身を置いている。
 だから正直、彼からすれば「仕事辞めたい」なんて甘えだ!何事だ!……なんて、さすがに明らかな非難こそされないだろうがある程度は冷めた目であしらわれるだろうと身構えての告白だったのだ。なのに、なのに、この人は。

「俺はいいの。まだ平気だし、ちゃんと息抜きも出来てるし」

 それは初耳である。息抜きって何をしているんだろうか。でも、それを尋ねていいのかと一瞬迷ってしまう。だって、もし濁った瞳で「酒と煙草」なんて答えが返ってきたらどうしよう。それはそれで、人として不安過ぎてかける言葉を見つけられない自信がある。
「こら、変なこと考えただろ。まったく、遠まわしに言うだけじゃ伝わらないってのは、今更だからいいけどさ……。まあとにかく、俺はいいの」

 俺はいいの、と言ったってアナタ。一体どこをどう見たらそんな事が言えるのですか。
 消えないクマと、決していいとは言えない上にこれ以上よくなることなど滅多にないだろう顔色と、無駄な肉など全く付いていなくて一見痩せ過ぎだと心配したくなるけど、実は意外と筋肉質な身体(これは仕事柄、当たり前の事なのかもしれないけれど)と、さすがにこうして抱き締められると意識しないわけにはいかない程度には熱いけど、それでも私よりは幾らも低い平熱と、大好き……なんて決して言えないけど、残念なことにすっかり慣れてしまった煙草の臭いで構成される笹塚さんには「いいの」なんて言える余裕は無いと思う。
 それこそ、もっともっとご自愛してなんぼですよ。
 むしろ多少の肉はついているものの、まだ一応は"女性的"という表現で丸く収まる外見と、毎年毎年の企業検診では(たとえその直前一週間がどんな修羅場な勤務状況であろうとも)データ的には一切問題なく、たとえば貧血の疑いすら付かない程の超優良な結果を弾き出し続けている私の方が──むしろずっと頑丈で、健康で、逞しいんだから。

 などと思ったことをついつい口にしてしまったら、ぷっと吹き出す気配があった。そのまま少しの沈黙の後、耐えられないといった様子で肩が大きく揺れ始める。繰り返すけれど、今なお抱き締められている状態である。つまり、笹塚さんの呼吸に合わせてぎゅうぎゅう力が入ったり抜けたりするのだから堪らない。
 具体的にいえば、乱れた呼吸に合わせて捩れる腹筋だとか、笑った拍子にぎゅっと掴まれる背中のくすぐったいようなもどかしいような痛みだとか、押し当てられる身体の硬さだとか、鼓膜を震わせる暖かい声だとか、とにかく色々な意味で刺激が強過ぎる。

「確かに、なまえのそういう所って凄いよな。まあ、だからこそ、俺も安心していられるってこともある……二人ともが潰れたら、それこそ目も当てられないだろう? だからさ、俺の事を心配してくれるならまずはなまえが身も心も元気で居てくれなきゃ」

 ああもう。どうやら今日は徹底的に甘やかして下さる気らしい。いや、「今日も」と言った方が正しいだろうか。
 一事が万事この調子の笹塚さんを相手に、これ以上うじうじ拗ねた事を言うのはもう止めるべきだとさすがに悟る。きっと引き続き──例えば、私がされたら思わず殴り倒したくなる程の、鬱陶しいいじけっぷりを発揮したところで笹塚さんは抱きしめてくれるだろう。でも、そんなのはお互いに幸せではないし、後々自分の鬱陶しさに腹が立って自己嫌悪に陥ることも明らかだ。それに……格好悪いことだが先ほどの、まるで子供のように吐き散らした嗚咽が実はかなり効果的だったようで、いつの間にか随分と胸が軽くなっていることにも気が付いてしまったから。すっかり乾いた涙の痕がぴんと皮膚を引っ張るのが少しばかり痛いけれど、でも多分、泣いたままでいるよりずっといい。

 ああもうごめん。鬱陶しくてごめん。そして、優しくしてくれてありがとう。付き合ってくれてありがとう。もう大丈夫。もう平気。今日の事は忘れないから。今度は、私が笹塚さんを抱き締めるから。

 ……でも、そうだな、今は取り敢えず、この素敵な人にキスしたくて堪らない。
 顔を見られないのをいいことに感情のまま百面相をしていた私は、最後に浮かんだ思いのままそっと目を閉じた。さて、浮かんだこの思いを、どうやって実行に移そうか。


  ***


 大好きにありがとう、そして笹塚さんに負けないくらいに私も笹塚さんを甘やかすんだから、という決意をたっぷり込めた口付けから、更にたっぷり数十分経ったベッドの上で、また私はすっぽりと笹塚さんに包まれていた。
 と言っても、今度はふたりで寝っ転がった状態で後ろから……だ。この人はいつも、終わった後までやたらに甘い。
「最初くらいは最後まで頑張ってくれる人って多いらしいけど……笹塚さんは段違いだなぁ。うん、凄いや。気配りができるいい人だ」
 とか最初の頃は"今だけ"の甘さだと割り切った上で感激していたのだけれど、なんと笹塚さんは最初から笹塚さんのままだった。そんなわけで、両手両足で数えられる夜を超える頃には、気を使ってくれているとかではなくてただ単に、こういう接触が好きなタイプなのだと納得していた。

「……それにさ、俺はどうせ下心ありで言ってるんだから、なまえも遠慮せずに甘えりゃいいんだって」
「……下心?」
「心身ともに元気で、ずーっと俺の傍に居て欲しいなぁ、っていう下心」

 顔を見上げようとするも、回された腕にぎゅっと力を込められて叶わない。その上、身動きが取れないように肩をすぼめて私を挟み、頭頂部まで顎で抑えるという念の入れっぷりだ。

 ああもう、自分で言って照れるって、何ですかそれ。
 なんであなたは、そんなに素敵で可愛いの!

 落ち着いていた筈の心臓が、我を忘れて踊り出す。
 退職願も有給消化も就職活動もその瞬間に全部すっかり吹っ飛んで、代わりにくらりと幸せな眩暈に襲われた。ああ、たとえ休んで怠惰の味を知ったとしても、戻った社会の先にこの人が居てくれるのなら……私はまだまだ頑張れそうです。



(2014.08.10)
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