■ 下

「たーだいま。よかった、まだ居てくれた」
「鍵を持って出たのは誰ですかって話なんだけど?」
「そういうなまえさんのちゃんとしてる所、好きだなー」

 なまえさんの眉間の皺が一段と深くなった。
 たとえ自分を困らせる男の家でも防犯を気にしてしまうのだから、このひとはぶれない。良心に訴えかける作戦とはいえ、本当にそっくりそのまま真っ当に受け止めてもらえると感動もひとしおというものだ。素直な感想を口にしたのに、なまえさんの反応は芳しくない。
 無言のまま引っ込んでしまったなまえさんを追いかけて部屋に入る。途端に、熱い風がむわっと纏わり付いてきた。もしやエアコンの故障だろうか。
「暑いでしょ」
 尋ねかけたところを完璧なタイミングで遮られて振り返る。仏頂面のなまえさんが、ほらとマグカップを差し出した。
「あんな格好だからさぞ凍えて戻ってくるだろうなって思って。まるで必要なかったみたいだけど」
「ああ、うん。裏にあったのを借りて来ちゃった」
 さすがに暖房の入っていない店内は寒すぎてバイト用のジャケットを拝借し、そのまま着て帰ってきたのだが。
「あーあ、こんなに至れり尽くせりで出迎えてもらえるなら置いてくればよかったな」
「……そういう自己管理が出来ている所、結構好きですよ」
 かなり重い本音を混ぜつつも、あくまで軽口という様子見を超えられない自分が恨めしい。などと内心自虐しながら湯気の立つ紅茶を含んだところに反撃を食らって、頭が真っ白になる。
 どういう意味だと尋ねるために慌てて喉を鳴らせば、予想外の熱が予想外の勢いで喉を滑り落ちてくる。やばいと覚悟する暇もなく、食道だか気管だかが焼ける痛みに襲われた。たまらず身を折っても何ひとつ楽にはならなくて、それどころか混ぜかえされた空気がごぼごぼと暴れて追い打ちをかけてくる。
「は、はい、お水」
 差し出されたグラスを呷ったことでひとまず燃えるような痛みは落ち着いたものの、ごほごほという咳はなかなかおさまらない。なまえさんが何度も声をかけてくれたけれど、身体中に響く自分の音がうるさくて聞き取れなかった。ああ、じれったくて嫌になる。おまけに、恥を承知で顔を上げたところで、滲んだ視界は何一つ確かなものを映してはくれないのだから。口説こうと決めた途端にこんな姿を晒すなんて格好がつかない。こんな間抜けは見たことがない。
 背中に添えられる手の温もりが心地いい反面、年下扱いを思い知らされるようで複雑だ。
「……ごめん。もう大丈夫」
 やっとなまえさんの顔を見れた時には、部屋はすっかり適温に戻っていた。呆れられているだろうと覚悟していたのに、すっかり落ち込んだ様子のなまえさんに「こっちこそごめん」と謝られて慌てて手を振る。そんな顔をさせたいわけではないのだ。そりゃもちろん困った顔を見るのも好きだけれど、それはこんな深刻な雰囲気ではなくて、例えばもっと軽くて楽しい瞬間がいい。

「それでね、なまえさん。今更こんな話をしても格好つかないってのはわかってるんですけど」
「ちょっと待って。そのちょこちょこ口調変えてきめにくるの何なの! 落ち着かないんだけど!」
「なまえさんこういう感じも好きかなって」
「す、好きだけど、確かに好きだけど……!」

 そう、こんな感じがいい。否定しようと首を振りかけて結局認めてしまうあたりも微笑ましくて堪らない。「安藤さんみたい」と流される可能性が高かった分、葛藤する八の字眉と引き結ばれた唇の組み合わせに勝利を味わう。尤も、やっと笑ってもらえたところで向かう先が地獄なことに変わりはない。

「……ってのは冗談なんですけどね。これでも、どうやったらあなたに本気にしてもらえるかなって考えてるんですよ」

 我ながら、唐突だとはわかっている。彼女の知る三沢満善という男から遠い振る舞いをしているという自覚もある。それでも、あの後ろ姿を黙って見送るわけにはいかなかったから。
 いっそ、面識がないところから始められたら楽だったのにと都合のいいことも考えた。ろくに知らない間柄なら、もっと気楽に好意を打ち明けられただろうし、もっと気安く求めもできただろうと。
 でも、そうはならなかったのだ。
 ゆっくりとあなたに惹かれて、こうして取り返しのつかないところまで来てしまった。

「ねえなまえさん、後生ですから俺の話、茶化さないで聞いてくれませんか」
「あー……もう。ずるい。そんな顔されたら断れるわけないじゃない」

 きれいな髪をぐしゃりと掻き乱して、なまえさんが嘆息する。
 垣間見えた希望の兆しを喜ぶ前に、その仕草が色っぽいなあとよこしまな感想を持ってしまった自分を少しだけ嫌いになる。とっくに友人失格だけれど、大切なことを確かめないまま欲に呑まれることだけは避けたい。

 嫌がられていないのを確かめながら、おずおずとなまえさんの手に触れてみた。小さくて柔らかい手のひらは吸い付くように男の手を受け入れた、ように思えた。なまえさんはされるがままで何も言ってくれない。けれど、避けられはしない。沈黙の中にほうっと優しい吐息が広がった。それだけで、心臓が一段と激しく脈を打つ。ゆっくりと触れ合う面積を増やしていく。
 少しだけ力を込めて握ろうとして、自分の手が震えていることに気付いた。女のひとに触る時、どんな感じで触れていたっけ。今までの経験が全部どこかへ吹っ飛んでしまって、何もわからなくなっていた。本当に、こんなのは俺らしくない。
 エアコンの音がやけにうるさい。
 どうか振り解かないでくれとガキみたいに緊張しながら、全身をなまえさんに集中させる。心細いという本音を押し隠すように、大胆に振る舞ってみせる。例えば、指の間を撫でてみたり。例えば、一本、二本と順番に、細い指先に自分の指を絡めてみたり。

 それでも、彼女はされるがままだ。
 何も言わないで欲しいとも思うし、何か言って欲しいとも思う。これ以上どう押したらいいのかわからない。だから、愚直に繰り返す。
「俺のこと、考えられそうですか?」
 柔らかく伏せられていた瞼が開いて、黒い瞳がこちらを見た。
 ぱちぱちと睫毛が揺れている。
「考えたから、こうしてるんだけどなー」
 どこか困ったように首を傾げて、なまえさんがくしゃりと笑った。この至近距離でその顔は反則だろう。
 身体の内側がかっと熱を持ち、鳩尾にぎゅっと力が入る。咄嗟に浮かんだ聞き間違いではないか、という戸惑いはなまえさんの眼差しにあっという間に押し流された。決して短くはない付き合いを経て、今、こうして初めて向けられた表情がくすぐったくて敵わない。見惚れるのと驚くのと喜ぶので忙しくて、息を吸うのもやっとだ。どくりどくりと忙しく空回る心臓の奥で、じわじわと実感が染み渡っていく。
 だというのに、この感動を「でね、」と遮るのだから、ひどい。詰めが甘いくせに妙なところで抜かりがない。

「正直、あんまりそういう風に意識してなかったからさ、とりあえずお試しってことで始めてみようか」

 ここ以外の落とし所は認めないとばかりに締めたなまえさんは満足気に微笑んだ。


  ***


 望みが叶ったというのに、やり込められた気分になるのは何故だろう。
 蛇になれと焚きつけた自分が言えたことではないけれど、だからといってこうも悠然と構えられてしまっては立つ瀬がない。それならば。そっちがその気ならば。
 このひとの余裕を崩すための悪戯をひとつ。
「ところで、明日も休みのなまえさんは今が何時かわかってる?」
「もちろん。明日がお仕事な満善さんのお邪魔はしませんとも」
 照れるどころか、お気に入りのビーズソファに陣取って毛布の要塞を築きながら言われてしまえばお手上げだ。

 なんだ、本当にもうすっかりいつも通りじゃないか。
 でも不思議と悪い気はしない。仕方がないから、ひとしきり笑った後でなまえさんの巣作りを手伝おうと決めた。



(2019.11.02)
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