人生で初めて恋をした。所謂W初恋W。その人を見かけただけで幸せな気持ちになれた。今まで見ていた世界ががらりと変わって、生まれ変わったような錯覚さえ覚えた。
 柄にもなくメイクも服も話し方や仕草だって変えた。だって私はその人の隣に立つのに相応しくなりたかったから。真面目で少し口数が少なくて。女の子が苦手だけれど、すごく丁寧に接しようとしてくれる辻くんが、私は愛しくてたまらなかった。
「でね、辻くんとこの前廊下ですれ違ったんだけど、手を振ってみたら軽く会釈してくれたの!」
「……夏子さあ、それ嬉しいの?」
「当たり前でしょ。女の子が苦手な辻くんが会釈よ? これは脈アリだと思わない?」
「ぜんっぜん思わない。もう辻ちゃんの話は飽きたよ。購買行こうよ夏子〜」
「うわっちょっと犬飼!もたれかからないでってば!重い!」
「夏子よりマシ」
「でたらめ言うな!犬飼より普通に軽いわ!」
「えっこの前三キロもがっ」
「はい黙って〜」
 私の人生はすごく退屈なように見える。親に言われるがまま入った学校は進学校と言われるところで、勉強にすべてを吸い取られていくような毎日だった。今年高校三年になってさらにハードになった学業と、ボーダー活動をなんとか続けている。同期の犬飼は同じクラスでもあり、気心の知れた数少ない友人である。偶然にも一年からずっと同じクラスで、私たちは常にと言っても過言ではないくらい一緒にいた。
 ボーダーに入隊したのは、特にやることもなかったから。部活だって途中で行かなくなってしまった私を心配した親が放り込んだのがボーダーだった。市民の安全を守っている、なんて世間体には好都合だったからに違いない。結局のところ、私の親は私にその程度の価値しか見出していなかったのだ。
 でも今は心から感謝している。ボーダーに入って、私の毎日は少しずついい方向で変わっていった。犬飼と出会って初めて喋ったのだって、入隊式の時だった。色素の薄い髪にチャラチャラした風貌は決していい印象を与えなかったけれど、犬飼はとてもいいやつだった。そして犬飼は私と辻くんを出会わせてくれた。
 忘れることなんてできない、あの日のあのできごと。任務で早引きした犬飼の分のプリントを持って二宮隊の隊室に行った。
「犬飼、これ今日の数三のプリントだけど、」
 開いた自動ドアの先に立っていたのは見慣れた金髪ではなく、漆黒。犬飼と同じ、でも少しかっちりめに着こなしたスーツの隊服と同じくらい漆黒の髪に瞳。初めて見る人だった。
「……あの、」
「あ、ごめんなさい。えっと、犬飼くん居ますか? 私同じクラスでプリント届けに来ました。藤田夏子って言えば多分わかると思うんですけど」
「……そう、ですか。すみません、今は犬飼先輩は留守にしてまして」
「そうだったんですか……。おかしいなあ、今から行くってメールしといたのに」
 そしてそのメールに分かったと返したのは紛れもなく犬飼だ。やつの携帯が勝手に操作されていなければ。仕方ない、出直そうと思って切り出そうとした。
「もし、よかったら。ここで待ってますか。大したもてなしは出来ないんですけど」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
 ぎこちなく終わらせた会話のあと彼は部屋の奥に戻っていく。通された二宮隊の隊室は綺麗に整理整頓されていて、隊長の二宮さんの性格が垣間見える。とりあえずソファに座って周りを見回してみる。ところどころに飛行機の模型や恐竜のフィギュアが置いてあった。模型はきっと犬飼だろう。誕生日に何が欲しいかと聞いた時、新作の飛行機の模型と即答した男だ。
「コーヒーと、チョコレートクッキーがあったので持ってきました。砂糖とミルクはいりますか」
「あ、ありがとう。ううん、大丈夫。このままで」
 コーヒーとお菓子を乗せたトレーをソファのすぐ前にあるテーブルに置いて彼は少し離れたところに腰を下ろした。沈黙が空間を支配する。私はきりだした。
「私さっきも言ったけど藤田夏子です。犬飼とは同じクラスなんだ。一応ソロでボーダーB級やってます」
「俺は、辻新之助です。高二で二宮隊のアタッカーです」
「かっこいい名前だね。いいなあ今時珍しい古風な感じで」
「そう、でしょうか」
 辻くんは自分のコーヒーカップか、隊室の家具に目線をやったまま私の振った話題に答える。その間、一度も私とは目を合わせようとしない。
「…ねえ、辻くんさ。…もしかして、女のひと苦手だったりする?」
試しにそう聞いてみると、びくり、と肩がはねた。分かりやすいというか、なんというか。目線をさらにせわしなく動かしてから、静かに辻くんはうなだれた。
「…すみません、気分悪くさせましたよね」
「ううん、全然。むしろ辻くんすごくいいこだなーって思った」
「えっ」
「だって普通に考えたら苦手な女のひとわざわざ自分しかいないこのタイミングで、隊室に招いたりしないでしょう。私だったら丁重に帰ってもらうようにするし」
「先輩のご友人だと伺いましたので。人を邪険にあしらうのは、失礼じゃないですか」
 なんて、優しい人なんだろう。私はすぐに恋に落ちた。こんなにやさしい人と出会ったのは初めてだった。辻くんの苦手な女である私に、彼はすごく紳士的だった。特に会話もなかったし、取り留めて盛り上がったわけでもない。ただすごく心地のいい沈黙だった。コーヒーの香り、時計の針が進む音、私と辻くんの呼吸音。時折交わす会話。それらに包まれたあの空間だけ、時が止まっているように感じた。
「…また、遊びに来てもいいかな」
「…はい」
 大したもてなしはできませんけれど。彼はまたそう言ってかすかに笑った。

 あれからことあるごとに私は辻くんに会いに行った。犬飼は私の心に抱くそれにいち早く気づいて、私が辻くんに会いに行こうものなら一緒に行くと言ってきかなかった。
「なんで辻ちゃんなのさ。奈良坂とか、もう一個下には古寺だっているのに」
「辻くんは優しいじゃない。それに三輪隊の二人とはあまり交流がないからわからないし」
「辻ちゃんは全然優しくないよ」
「少なくとも犬飼に比べたら優しいと思う」
 私はまだ、辻くんについて知っていることは少ないんだろう。むしろ、それでいいと思う。辻くんのことが知りたいって理由があれば、話しかけるきっかけにもなるから。
「…辻ちゃんは、やめといたほうがいいと思うけどなあ」
「どうして?」
「どうせ夏子は信じないよ。だからせいぜい辻ちゃんの追っかけしてればいいよ」
 その日の犬飼は、どこか他人行儀で、怖かった。けれど、私はそれよりも犬飼に否定されたことが悲しかった。
 だって、犬飼はいつだって私の見方になってくれていたから。友達とけんかしたときは間に入ってくれた。テスト前はなんだかんだ言って一緒に勉強してくれた。だから、きっと私の初めての恋も喜んで応援してくれると思っていた。
「…じゃあもういいよ! 別に犬飼に認めてもらえなくてもいいもの!」
 そんなこと、一度も思ったことなんてない。でもこの時の私は、犬飼に認めてもらえなかった悲しさと、悔しさと、ほんの少しのいら立ちで頭がいっぱいになってしまっていた。ちゃんと聞いておくべきだったのだ。どうしてそんなことを言うのか。いったい何を考えているのかと。誰よりもちゃんとわかっているはずなのに。犬飼が意味もなくそんなことを言うはずがないって。
 ぐちゃぐちゃになってしまった気持ちのまま、かばんを持って教室を出る。そのまままっすぐ、ボーダーへ向かう。今辻くんの顔を見たらきっとこの何とも言えない気持ちを払しょくしてくれると思ったから。
 二宮隊の隊室へ向かう廊下で、大好きな背中を見つけた。
「辻く、」
「辻、ここの手順だけど」
「ええ、はい。把握してます。ひゃみさん」
 実際、頭は痛かった。頭も心臓も、どこもかしこも痛かった。原因は自己嫌悪だ。