私の家には週に3回、家庭教師が来る。中学は受験して、高校はそのままエスカレーター式で進学はできたが、サボり癖の酷い私に耐えかねた両親が雇ったのだ。いや、本当に余計なことをしてくれる。勉強なんて適当にやっていればいいのだ。結果は置いといて。幸い、家庭教師というので思いっきり態度の悪い生徒を装うことにした。そうすれば、勝手に辞めてくれると思ったから。どうせもさいガリ勉が来るに決まってるんだ。
 ――とか考えてた3日前の私出てこい。
「こんにちは、はじめまして。今日から君の先生になる月岡紬と言います。よろしくね」
 脳天からものすごい衝撃を受けたような気がした。

 フリーター、24歳、O型で12月28日生まれ。あとは私のほかにも生徒を抱えているらしい。私が紬先生から聞き出せた情報は、大したことのないものばかり。先生のことを知りたいと思って、聞き出そうとすればするほど先生ははぐらかした。
 課題を解くふりをしながら、紬先生の横顔を見るのがルーティンになっている。穏やかで、本人は絶対に否定するけれどとても綺麗だ。あんまり見ていると、私が問題を解いていないことがバレるどころか、わからなくて手が止まっていると勘違いされてしまう。いや、それ自体は何の問題もない。一番の難所はその時にもともと近い距離にいるのに、椅子をさらに私の横に寄せて手元のプリントをのぞき込んでくることだ。「近い!」と文句を言えば、「こうしないと見えないし、教えてあげられないでしょ」と返され、ぐうの音も出ない。近すぎて顔から火が出るかと思った。あ、とか、う、とかしどろもどろになる私をよそに、さらにゆっくり言い聞かせるように解説を続ける先生に、そのうち心臓を破られそうだ。
 正直なところ、心臓がドキドキしすぎて勉強どころの話ではない。よく他人から、かわいげがない、達観している、などと言われることが多かったが、名前も立派な女だったようだ。一目惚れとはいえ、好きな男が近くにいて落ち着かないわけがなかった。
「はい、じゃあ今日はここまで。ちゃんと予習と復習、しておくんだよ」
 紬先生は、最近どこか嬉しそうだ。聞けば、どうやら劇団に所属することになったらしい。もともと昔から演劇に携わっていたという話は聞いていたけれど、そのときの表情は暗くてそれ以上は聞くなという威圧感さえあった。学校に劇団が来ることになったときのチラシを無造作に机に置いていたら、先生はあからさまに動揺してその上にわざわざ課題のテキストを置いて隠したくらいだ。きっとなにかあったのだろうと思っていたから、その報告には驚いた。
 優しい私の家庭教師としての紬先生の顔は知っている。でも、俳優としての先生を私は知らない。大人で落ち着いていて、違う世界で輝く先生を見てみたいと思う反面、少しの恐怖も感じていた。
「先生、舞台の公演はいつあるんですか?」
「えっ? 急にどうしたの」
 きょとんとした顔で後片付けをしていた紬先生は私のほうを振り返った。先生はこの後、その劇団の寮に帰るらしい。劇団に所属することになってから、先生は家庭教師のシフトを減らした。
「だって先生、劇団にかかりきりじゃん。かわいい生徒がお願いしてるんだからチケットの1枚くらいくれてもいいじゃないですか〜」
 ちょっとおどけて言ってから、後悔した。椅子の背もたれに顔を押し付けて先生の返答を待つ。