アーサーの機嫌を伺って行動したり、言葉を発することがわたしにとっていつしか当たり前のことになっていた。誰かと外に出かけるにしても彼の承諾が必要だったし、わたしが着ているレースがふんだんにあしらわれた純白のワンピースさえも彼が選んでくれたものだった。大きなリボンのカチューシャも黒のストラップシューズもなにもかもが彼で染まってる。よくよく考えてみれば、わたしは自分のものをひとつももっていないのだ。一人部屋にしては広すぎる自室のどこを見渡しても、自分が身につけているものにしても。

週末のピアノレッスンを終え、手持無沙汰になったわたしはケータイをとりだし、メール画面を起動させる。数件の新着メールの一番上にアーサーの名前が写しだされる。まっさきにそのメールを開き内容を確認すると、いつもと変わらないそっけない文章で、終わったら返信するように。と書かれていた。さっそくそのメールに返信すると数分もしないうちにケータイが振動する。見なくてもわかるのに律儀に開封すると、まっていろ。とたった一行だけの内容。きっと予測変換の一番初めに出てくるのだろう。見慣れた言葉に感情はなく、ただ機械的。わたしには重い言葉の呪縛。アーサーの言葉に対して背くという感情が生まれないのは、きっとなにかしらあるのだ。考えてみるとアーサーなら本当に秘密があるのかもしれないと思った。ただでさえ、普段から妖精たちとおしゃべりしているわけなのだから。

ぴかぴかのストラップシューズを眺めながら思いついた分だけ呪文を再生する。アブラカダブラ、ちちんぷいぷい……。まだ2つめだというのに、もうだしつくした感が否めず大きなため息をつく。家にはあんなにたくさんの童話であふれているのに、わたしは不思議の国のアリスの第四章にしおりを挟んだままなのだ。ごめんねアリス。きっともうあなたに会うことはないと思う。不思議の国で迷子になったままのアリスを突き放して、ほかの童話をもっと読んでおけばよかった。そうしたらもっといろいろと唱えられたのに。ごめんね、なんて言葉じゃない他の言葉を。

name、とわたしを呼ぶ聴き慣れたテノール。足下から顔を上げれば優しい笑顔を浮かべたアーサーが立っていた。今日は機嫌がいいみたいですこしほっとした。機嫌が悪いときは必ずと言って言い争いになったりするのだ。痺れをきかせてもう一度アーサーがわたしを呼ぶ。いま行く、と彼のほうに足を進めるわたしは彼の呪文に従っているようだった。そこでわたしは気づく。わたしが彼のすることを拒めない理由はこれだったのだ。

「name」の短い文字の羅列がさしずめ彼の呪文の言葉だったのだ。納得。

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