人の体というのは不思議なものだ。 腹も空くし、痛みを感じるし、何かを好ましいと思ったり嫌悪したりと感情もある。そんな体を与えられたこと自体が奇妙なものだった。 「三日月、お茶でもいかがですか?」 「うむ、いただくか」 三日月宗近に体を与えたのはひとりの女だった。貴族の娘である女は何やら不思議な力を持っていた。刀を人の姿に顕現させるなど、奇妙な力を持った奴だと思った。 だが女の家はすでに没落していた。家族も家臣も流行り病に倒れ、この家は物の怪の家と呼ばれるようになった。今や誰も寄り付かず、三日月と娘が密やかに暮らす場所。不思議なことに、これだけの不幸に見舞われているのに、娘は都を出ようともしない。 「娘よ、ひとついいか?」 「なんでしょう」 「俺とここにいて、いいのか?」 「と、言いますと?」 「いやなに、人並みに結婚し暮らすのが恋しくないのかということだ」 「あまり」 「そうか」 茶の入った器を傾けた娘はゆるりと微笑む。 “笑う”というのはこの娘から教わった。娘はよく笑う。 「結婚が幸せとは限りません。多くの妻のひとりとして過ごすよりも、三日月と過ごすほうが私にとって遥かによいのです」 「俺と共にあること喜んでくれるか。やぁ嬉しいな」 「それに、あなたのような美しい殿方を一度でも見てしまえば、他の殿方など目に入りませんよ」 「あっはっは、それはいい。持ち主に大事にされるのはいいことだ」 ひとしきり笑って三日月も茶をすすった。 未だ疑問なのは、自分たちの関係はどういったものかだ。刀とその持ち主か。ひとりの女と、三日月という男か。この娘と何か特別な関係を築いたわけではないが。 「大事にしてくれる主には、何かを返したいものだな」 「あらまぁ、まるで人のようなことをおっしゃる」 「今の俺は人だぞ。不思議なことにな」 「ええ、本当に」 今の体があるのはひとえにこの娘のおかげだが、娘自身も突如として現れた三日月には驚いていた。 覚えているぞ、その時の事。 「して、娘よ。日頃の恩を返そうと思うが、何か望むものはあるか?」 「ものは、特に」 「ふむ、では言い方を変えよう。何か望むことはあるか?」 「望むこと…」 茶を揺らしながら娘はしばし考えていた。 笑った顔もいいが、その凛とした横顔はとても美しく思えた。何かを思いついたように娘はこちらに目線をくれる。 「では、ひとつだけお願いしたいことがあります」 「ひとつと言わず、いくつでも叶えよう」 「そんなことを言って。できることにも限度というものがあるでしょう」 「まぁ、ほらであっても大きいことはいいことだ」 「まったく…」 困ったように娘はまた笑う。 「して、願いはなんだ?」 「ええ。お願いしたいことがあります」 茶の器を置くと、娘は重ねた単を引きずり三日月に近づく。寄ってくれるのは、嬉しいことだ。 とんとん、と三日月が持っている器を叩くので、器を置いた。何も言わずじっと見上げてくる娘を不思議に思ったが、ふと思いついて腕を引いてやる。 待ち望んだように俺の腕に収まる娘の、なんと恋しかるべきことよ。 「望みはこれか?」 「いえ、これは、…ああ、これもたしかに望んでいましたね」 「そうか、ではひとつ叶えることができたな」 「先程いくつでも叶えてくださるとおっしゃいましたよね?」 「ああ、言った」 「では、もうふたつ」 すると腰に携えた三日月の本体と言える刀へ、手を触れた。わずかに鞘から引き抜かれ、刀身が鈍く光る。 「私が生を終える時には、この美しい刀身で私を斬っていただきたいのです」 「なにを、」 「この先、私が病に侵されようと、老いて衰弱しようと、」 最後に私の命を絶つのは、あなたであって欲しい。 叶えるとは言った。だがそんなことを望まれるとは思っていなかった。それはできないと言おうとしたが、瞬時に思考が巡る。 「斬ったら、そのとき俺はどうなる?」 「おそらくは、人の姿ではなくなるのかと」 推定とはいえ、返って来たのは自分で予想した答えだった。娘の奇妙な力で人の姿となった三日月は娘の命が尽きたとき、人の姿はしていられないだろう。再び一本の刀となる。 つまり、自分がひとり寂しくここに生きるということにはならないか。それならばいい。 「わかった。そのときが来たら叶えよう」 「ありがとうございます、三日月」 「もうふたつと言ったな。残りひとつはなんだ?」 「ああ、そうでしたね」 引き抜いていた刀身を鞘に戻した娘は、三日月の頬に手を添えた。 「あなたという刀を私のような女が縛り付けるのはよくないと思うのですが…。…私が持ち主である限り、あなたが私を斬り死ぬときまで、私と共にあってください。三日月宗近殿」 その申し出に、つい何度か瞬きを繰り返す。 三日月にとってそれはいとも簡単なことだった。ごく当たり前にそうするつもりであった。なぜそれを、そのような神妙な顔で言うのか理解しがたいほどだ。 だが気づいた。この娘は不安なのだ。刀など、本来女が持つべきものではない。三日月が見限って離れるのではないかと、刀の持ち主という自身の器に自信がないのだろう。いらない心配をしているようだ。 そんな顔をするな、いつものように笑ってくれ。ひとまず安心させてやらなくてはな。 「あいわかった。叶えよう」 そう言ってやれば、了承されるとは思っていなかったのだろうか。一瞬呆けた表情をしたが、すぐに嬉しげな花が咲く。 「そうだ。俺からもひとついいか?」 「私にできることならば」 「ああ、主である者に叶えて欲しい」 娘が三日月にそうしているように、手を頬に添えてやる。もう片方はしっかりと背中に回した。 「お前を斬ったときは、どうかそのまま俺を抱いて死んでくれ。俺が望むのはそれだけだ」 長い髪を撫でてやれば、さも当然と言うようにしっかりと頷いた。三日月本人も共にあることは当然だと、今の娘と同じように思っている。 「ええ、きっと」 「叶えてくれるか。嬉しいことだ」 そのまま抱きしめてやれば、娘はこれ以上ないくらいの幸せそうな顔で笑う。笑うのは幸せなことだと教えてくれた。いや、幸せだから笑うのだろうか。こちらも自然と笑ってしまう。 奇妙な力を持って俺を得た娘よ、お前は今幸せか? はい、とても。 「うむ、よきかなよきかな―――」 「三日月よ」 「…岩融か」 声のほうへ視線を向ければ、三日月よりもはるかに上背のある男がこちらへ来る。 「どうした、庭の真ん中でぼんやりとして。まぁお前がぼんやりしているのは今に始まったことではないがな」 「あっはっは、なかなか言うな。…少し昔のことを思い出していただけだ」 「お前の言う昔とはいつのことだかな。さすがに昨日のことを昔とは言うまい」 「ああ、もっと前のことだ。俺が打たれた頃のな」 「…待て。昔とはいえ、まったくもって少しではないぞ」 「はっは、それもそうか」 「どれ、名だたる天下五剣の馳せる思い出を聞こうか」 冗談めかして岩融は豪快に笑う。同じ刀派の仲とはいえあまり明らかにはしたくないものだが、恐らくは岩融も本気で詮索しようとは思っていないだろう。 まさか、再びこうして人の姿になるとは思ってもいなかった。同じ刀派の者たちと同じ場所で同じ主人に仕えるなど、考えもしなかった。不思議な縁だ。 徐に鞘から刀を抜き、刀身を太陽に照らす。 「なに。俺が初めて、人を斬って殺めたときの話だ」 「ほう?」 ぼかして言ってみれば、興味ありげに岩融は口元を上げる。 ああ、だが違うな。この言い方は正しくない。 「すまんな、訂正しよう」 「殺めた話ではないのか?」 「ああ」 本体を鞘に納めて、今や癖のように三日月は笑う。 遥か昔に教わった、笑うということ。 「俺が初めて、人を愛おしいと思ったときの話だ」 お題:噂のかきかきbot @uwasa_kakikaki →「1000年生きても君だけは忘れないさ」 |