生きたくない | 16:51
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(なんでわたしじゃないの)

幼い頃から彼女のことがすきだった。小学生の頃から冷めた眼差しを持て余し、教科書ばかりをみつめていた彼女のことがすきだった。その横をゆっくりあるきながら、こちらをみないその横顔をみつめていた。いつからだろう、この気持ちになまえがついたのは。これが恋だと、自覚したのはいつだったか。思い出せない。いつのまにかわたしは彼女に恋をしていた。けれどそれは、少女漫画みたいにきらきらしたうつくしいものではなかった。わたしが知ったのはそんな夢物語ではなくて、醜く爛れた自らの心臓だけだったのだ。
彼女のことをすきだという輩が現れたと知ったのは、高校一年生の春だった。めずらしく頬を紅潮させていた彼女(まあ表情はいつもどおりの無表情だったわけだけれど)の口から、その事実は語られた。ふだんだったら絶対にやすやすと口にはしないだろうに、きっと動転していたのだろう。わたしは、笑顔を崩さなかった。と、おもう。わたしはこの実らないレンアイを長々と続けてきて、笑顔を動かさないでいる秘訣を知ったのだから。ともあれ、わたしは彼女の頭をさらりと撫でた。よかったね、と、思ってもいないことをいったのだ。わたしのなかみはざわざわと落ち着かずにざわめいていたというのに。信じられない、信じられなくて、後悔の念しかうかばなかったというのに。
彼のことをすきになったかもしれないと彼女が言い出したのも、高校一年生のことだった。わたしはそのことばを疑った。勉学にしか興味がなかった彼女が、まさか。わたしが長い間思い続けてきた彼女。となりでその横顔をみつめつづけてきた彼女。それなのに。…それなのに、わたしは、がんばれと、いったのだ。彼女に。叫びたかった、わたしはあなたがすきなんだと、嫌われる恐怖なんて忘れて、伝えたかった。でも、できなかった。わたしは彼女を困らせたくなかった。喉まで出かかった声は押し留められて、わたしはわらうしかなかった。あの子がすきだといってくれた、でもわたしのきらいな、笑顔を。

「…雫はハルくんがすきなのね」

賢治くんが雫にふられたという。彼はわたしにそれを教えてくれた。わたしがずいぶんとしにそうな顔をしていたから、らしい。否定はできない。わたしにとって、恋愛は人生を色づける青春じゃない。自分をきらいにする、でも甘い毒だ。
彼の金髪がさらさらゆれている。わたしはへにゃりとわらった。わらって、しゃがみこんだ。両手で顔を覆う。かさついた指先が肌にふれて、軋む。涙は出ない、でも、泣きたかった。彼は自分の感情を彼女に伝えたのだ。でもわたしはできない。臆病者のわたしにはできない。わたしはつよくないからだ。弱いのだ。これ以上ないくらいに。

「…あんたは、水谷サンがすきなんだろ」
「どうだろう」

顔を上げると、真面目な顔をした彼と目が合った。彼はなにかを捨て去った顔をしていた。未練がましいわたしとはちがう。さっぱりとした、顔。

「わたしは雫がすき、だけど、…わたしがあのこを好きになればなるほど、わたしはわたしをきらいになるの」

雫への想いが強くなるほど、わたしの嫉妬心は育つのだ。首をもたげた蛇のように執拗に、わたしのこころを締めあげていく。

「恋なんて、するもんじゃないよ」
「……それ、水谷サンのことまで否定してるんじゃねえの、だってあの人、ハルと」
「ああ…ちがうの、恋をしてるひとを否定するわけじゃあないの、これはわたしの問題だもの」

恋をしてる雫もすき。でも、それを壊したくなる自分は確実に、存在する。それが嫌なのだ。妬みと嫉みに支配される自分をきらうのにはもう、つかれてしまった。けれど、どれだけそれに嫌気がさしていても、わたしにはどうすることもできない。10年近くの付き合いであるこの感情とは、最早簡単にはおさらばできない。

「…わたし、帰るわ」

立ち上がって、重たい瞼をあげる。思ったより賢治くんの立つ位置がちかくて、驚く。彼は怒ったような顔をしていた。なぜだろう。「どうかしたの」「…どうもしねえよ、なああんた」「…?」賢治くんはしばらく考えているようで、わたしは首をかしげる。伸びた手が、わたしの腕をつかんだ。毛先がかさかさしている。冬なのだ。唇も乾燥していて、口の端がぴりぴり傷んだ。

「あんたさ…自分のことしか考えてねえだろ」
「…」
「水谷サンがすきな自分がきらい?それ、自分が可愛くて仕様がないやつのいう台詞だろ」

否定出来ない。むしろ、否定する気がない。そんなの自分でわかっていた。わかっていたから、泣きたくなる。むりやりにわらうと、涙がぼろりと落っこちた。賢治くんは驚いた顔をした。わたしはつかまれた手をするりと抜いて、手の甲でちからいっぱい目を擦った。

「そんなの、わたしがいちばん、よくしってる」

わたしはなにも言わせないまま踵をかえしてそのまま歩き出す。鼓動がうるさい。止めたはずの涙が瞼の裏でさわがしく脈動している。耳を塞ぎたい。いますぐ、耳を塞いで目も閉じて、なにも考えずに眠りたい。
賢治くんの驚いた顔が脳裏に焼き付いて離れない。ああ雫に会いたい。あの冷えた眼差しに、会いたい。わたしの真っ黒な嫉妬心なんか押し込めて、彼女の幸福を祝える未来を夢見るのは、いけないことですか。


銅貨