「ミッドナイト先生…お願いが、あるんです」
「ん?どうしたの?」
「誘惑の香水、売って欲しいんです」


そんな会話が偶々耳に入ったのが、一週間くらい前だった。日直の仕事を終えて帰ろうとした矢先、廊下の突き当りの方から名前の声が聞こえた。内容から反射的に隠れて、様子を窺う。こちらに背を向けた名前は俺には気がついていないみたいだった。ミッドナイトとは、一瞬目があった。


「よく知ってるわね。あれ、随分前に生産中止してるのよ?」
「効果絶大だったと聞いてます。どうしても、欲しいんです」
「それで逆に危険だって制止されたんだけどね……確かに事務所に幾つかサンプルは残ってるわ。けど香水って意外と早くダメになっちゃうの。もう使えないかもしれないわ」
「え……そ、うなんですか……」


あからさまに声を落とす彼女に、どれだけその香水とやらを使いたかったのかと思案する。それ程までに誘惑したい相手がいるのか。そう思うと胸の辺りが苛々とざわめく様だった。
それが、所謂嫉妬というものだという事くらい、自分でも分かっているけれど。その相手は誰かと耳を澄ます。


「らしくないくらい、思い詰めた顔してる……誰かと結ばれたい
と頑張れば叶わない望みじゃないでしょう?何だか、楽して付き合いたいみたいな感情では無さそうね」
「ダメなんです……だって、相手が」


轟くん、なんです


思いもよらず出てきた自分の名前にハッとする。
名前が誘惑したい相手が俺…?
先程のざわめきはどこへやら、カッと顔に血が上るのが分かった。指先がどくりどくりと脈を打っている。混乱している中でミッドナイトがちらっとこちらを見た気がした。


「そうなの……けど、人の心を操ることの危険さが、どれほどのものか分かる?」
「……っ、すみません」
「………はぁ、仕方無いわ、あの誘惑の香水とはまた違うものがあるわ。明日持ってきてあげる」
「えっ、いいんですか…?!」
「流石に人の心を動かすほどの物を生徒にはあげられないけどね。さ、早く帰りなさい。そろそろ誰か通るわ」
「はいっ、ありがとうございます」


その言葉を最後に、ぱたぱたと駆ける足音が聞こえる。それから少ししてミッドナイトが「もう出てらっしゃい」と呟いた。


「罪な男ね、轟くん」
「いや…俺は何もしてないんですけど……」
「けど?」
「……結構、照れました」
「ふふっ青臭いわね?」

いいわぁとニヤける彼女に、そういえば体育祭の時も青臭いのが好みと言っていたなと思い出す。

「……で、何渡すつもりなんですか」
「あぁ、ただの香水よ。何の効果もない甘い香りの。使うかしら」
「あいつは使って、すぐに後悔しそうだ」
「あら、騙されてあげるの?」
「あいつがあんなに思い詰めて、俺を誘惑したいなら何されるか気になるんで」
「ふふふ……進展するといいわね」

そう微笑んで去るミッドナイトの背中を見送る。傾いた陽が窓から差し込んで痛いくらいのオレンジ色だった。




それから数日。
意を決したように部屋を訪れた名前が俺の前に立っていた。彼女からは甘いバニラみたいな香りがして、ミッドナイトは効果は無いなんて言っていたが、くらくらするくらいの香りに頭が麻痺しそうだった。
気がつけば自分の部屋の布団の上で、名前をそこに押し倒していた。柔らかい布団は彼女の形に沈んで、ふわりとまた香りを立ち込めさせた。

「とど、ろきくん……ごめんね」
「は…?」
「ごめん」
「っ、」
「んっ…!」

それから重なった唇。隙間から漏れる声と甘い匂いに持っていかれそうだった。柔らかい。唇を食むようにしていると、頬に冷たい感触があった。何事かと目を開けると、ぽろぽろと涙を零す名前。何を聞いても、ごめんねと謝るばかりだった。

それだけで、あぁ、好きだと思った。狡賢いくせにどこか遠慮がちで、素直じゃなくて。けど誰よりも自分と向き合って泣いて前に進む彼女に惹かれないわけがないんだ。

ミッドナイトに教わっていた、『おやすみ』という呪文みたいな言葉を吐いて、名前は離れていく。そんな言葉で眠るかよ。心操の個性かよ。彼女にバレないように心の中で笑って、離れていった手をつかむ。

名前は、俺が操られていないと知ったらどんな反応をするんだろうか。顔赤くするのか、怒るのか、泣くのか、謝るのか。でも、謝られても困るんだよな。俺だってお前の事が好きなんだ。

再び押し倒されたベッドの上で、突然のことに訳が分からないと目を丸くする名前に、今度は本当の笑顔を浮かべた。


           


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