太陽はまだ高くて、じりじりと肌を焼くみたいな日だった。玄関へと向かう廊下を歩いていく。けど、なんだか今日はすぐに帰る気にならなくて、何の気無しに図書室へと向かった。見た目より遥かに軽い扉を引くとひんやりとした風が焼けた肌を痛いくらいに冷やしていった。

あ、やばい。何にもしたくない。

けど自分には時間がないというのも事実で。怠けたい心を律して机についた。やるか、とノートを取り出して、明日の予習をする。カリカリと図書室にシャープペンシルの音が響いた。日本最高峰の図書室なのに、この時間は人が疎らでやけにその音が大きく反響する気がした。それなのに。

(あれ、普通科の……)
(あぁ…洗脳とかって奴だろ)

どこからかそんな声が聞こえた。いつの間にか力が入っていたのか、嫌な音を立てて芯が折れた。もう、何もしたくない。帰ろうか。

はぁ、と息を吐くと同じようなタイミングで溜め息が重なる。謎の気まずさを覚えながら、その方を向けば赤黒名前だった。

「あ、心操くん」
「あんたか」
「ふふ、お疲れ様」
「あぁ」

何てことない会話をコソコソとしていると、どこからか咳払いされてしまう。人が疎らとはいえ、図書室で話すなという事かと察した。けど、その方向はさっきの話し声と同じで。勝手なもんだな、とまた溜め息をついて、殆ど片付け終わっていた勉強道具を鞄にしまい、肩にかける。

「じゃあ」
「帰るの?」
「集中切れちまった……別にあんたのせいじゃない」
「…何も言ってないけど」
「迷惑かけちゃったかなって顔してた」
「心操くんて、」
「なに」
「……んーん、何でもない」

心でも読めるの?というような顔をして、口を噤んだ。こいつは存外顔に出やすいと思う。苛つきとか哀しいとか。何も知らない時は淡白そうに見えてたけど、こうして関わるようになってから感情的な部分を多くみた。
……初対面で怒らせたのは、俺だけど。


「あんたは、勉強か」
「そのつもりだったんだけど……」
「?」
「折角だし、一緒に帰ってもいい?」
「……いいけど」
「ありがと、準備するね」

コホン、とまた態とらしい咳払いが聞こえた。
こんな突然の誘いに動じるも、まぁ特に用もないし断る理由も無い。それどころか。

「おまたせ」
「あぁ」

俺よりも前を歩く名前からはふわり、風に乗ってといい匂いがする。そんなことでドキリとするくらいには、名前のことが気になっていた。
例えば、全校集会でふと姿を探してみたり。廊下ですれ違った時に振られる手に胸が鳴ったり。そんな小さな恋だった。
今の自分の状況から、恋愛なんてしてる暇も無いんだろうけど勝手に芽生えてしまった気持ちは意識して消すことも出来なくて。
こいつは何てこと無い気持ちで帰ろうと誘ったんだろうけど、俺からしたら平静を保つのでいっぱいいっぱいだ。

図書室を出て正面玄関へと向かう。最近の小テストの話とか暑すぎて夜中に目が覚めるとか、また何てことない話を続けた。

「そう言えば、心操くんのそれって、隈?」
「そうだけど」
「眠れてないの?」
「いや、中学の時からずっと」
「そうなんだ。中学の時ってどんな感じ?」
「今と同じで捻くれてるかな」
「ふふ、想像つくなぁ」

厄介な性格だね、なんて失礼なこと言う名前。それにつられて少し笑っているうちに下駄箱へと差し掛かる。名前に合わせてるからいつもよりゆっくりな筈なのに、いつもより着くのが早い。
ヒーロー科と普通科では当然、下駄箱も離れている。名前は先に履いてるねと律儀にも一声掛けてスニーカーを取り出していた。ローファーじゃないんだな、とふと思った疑問を口にすれば前に猫が引っ掻いて傷だらけなんだと笑っていた。名前を待たせても悪いし、と早足で端の下駄箱に向かい、一番下にある靴を少ししゃがんで取り出した。

視界は当然下に向いていて、少しだけ影がかる。さっきのスニーカーが目に入り、こちらまで名前が来たのだと分かった。

「何かで聞いたんだけど、」
「え?」

ふわり、と目の前でスカートが揺れる。俺と同じようにしゃがみ込んだ名前の顔がすぐ前にあった。

「顔、触っていい?」
「は?」
「温めると良いとか、聞いたんだよ」
「なに、を」
「目の下の隈。それ専用のパックもあるんだよ」

そう言いながら、俺の両目に遠慮無く掌が充てがわれる。反射的に目を瞑ってしまい、暗闇が広がった。
じんわりと伝わる熱と、さっきからバクバクと五月蝿い心臓に壊れるんじゃないかと思う。けど冷えた図書室のせいで体も冷たかった俺は、心地いい体温に少しだけ警戒を解いた。


好きな女が触れている。

その事実だけで緩む口元がばれやしないか、怖かった。
けど、遠慮無く触ってきたということは俺のことを男として意識しているわけでは無いんだろ。
むかつくなぁ、やっぱり。
それでも払いのけられない掌に、まだ少しだけ甘い夢を見たかった。そんな自分に笑いが溢れる。


「いきなりすぎるな、あんたは」
「よく言われる」
「つーか、もう良いんだけ…」


掌から、名前が動いたのが伝わる。直後、何かが唇を掠めた。それが何かなんてすぐに想像がついて、思わず手首を掴み視界を覆う手を退けた。いきなり入ってくる夕日の強いオレンジに目がうまく開けられない。
ようやく慣れたときには、掴んだ手首を振り払うように立ち上がる名前がいた。そのままこちらを見ることもなく、外へと向かう。なんだ、それ。振り払われた俺の手は空中で情けなく居場所を見失っていた。

「よし、じゃあ帰ろっか」
「おい、いや、待てよ」
「わ、外暑いよ〜。購買でアイスでも買えばよかったね」
「っ、名前!」

一向に歩みを止めない彼女の名前を呼べば、ぴたりと足が止まる。それでも俺の方を見ようとはしない。


なんで、キスしたんだよ
俺の事好きなのか
一緒に帰ろうって言ったのも、何でだよ
同じ気持ちなのか
それとも、お得意の気まぐれか


あぁ。もう、なんでも、いい
名前が俺にキスをしたっていう、それだけで良いと思った。

乱暴に肩を掴み、後ろに振り向かせる。そこには容赦ない夕日を浴びる名前がいた。肩が震えてる。目には少しだけ涙が溜まってる。きらきらと夕陽を目の中で受け止めているそれは、瞬きをすると頬を流れて、顎へと伝っていった。


「顔、赤いけど」
「ぁ、ぅ、うるさい」
「俺の事好きなのか」
「っ、」
「何でキスしたんだ」
「それは、」
「なぁ、教えてくれ」
「……好きなんだも、んっ」


愛しいと、思った。
ぶっきらぼうな言い方で、俺を好きだというその口が。
赤く染まっている頬も耳も。
震える肩も、揺れる髪も何もかもが、愛しくて、好きだと。


気付けば玄関前なんて、人が多くいるところで俺達は唇を重ねていた。痛いくらいに肩を抱いて、逃げないように。離れていかないように。どこからか小さな叫び声が聞こえる。咳払いが聞こえる。大方、野次馬だろう。あの俺達を追い出した奴らもいるのだろうか。あとで、あいつらの記憶は消してやる。けど、そんなのは後でで良い。

この唇が離れたら、俺も好きだと伝えようか。
そう自分に誓いながら、さっきより強く抱きしめた。



           


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