最後の一葉

『最後の一枚が散るとき、わたしも一緒に逝くのよ』

 レンガの壁を伝う蔦の葉が木枯らしに揺れる度、リリアンはこの言葉を思い出す。オー・ヘンリーの短編小説、『最後の一葉』だ。死に取り付かれた芸術家の卵、ジョンシーの言葉。ベアマン老人は往年の傑作を残し1人の娘の命を救った。代償として命を落した。
 コツコツとヒールが歩道を叩く。木枯らしが行き会う人々のコートの裾と、蔦の葉を揺らしていく。葉がハラハラと散っていった。リリアンは風に踊り地面に落ちていく枯れ葉たちを目で追う。無意識に、壁に残っている葉の枚数を数えていた。

「じゅうに、じゅういち、じゅう、く、はち、なな……」

 それが作中のジョンシーのセリフとまったく同じなので、思わず苦笑する。べつにリリアンは死に取り付かれてなどいないし、蔦の葉に自分の運命を投影させる気もそらさらない。7枚目の葉が地面に落ちたところで、リリアンは壁から目を逸らした。歩道の向かい側から、個別指導チュートリアルを終えた男が歩いてくる。可愛らしい子猫のプリントがされたシャツにジーパンをあわせ、肉球型のボタンがついたコートを着た男。ファッションセンスを母体に忘れてきてしまった残念なイケメン、西野隆弘だ。彼はタバコの煙を吐き出してからリリアンを見つめ、コバルトグリーンの双方を微かに細める。

「待ったか」

 男の問いかけにリリアンはゆるゆると首を振る。

「ううん。家にかえろ」

 隆弘がごく自然に、リリアンの手を握って歩き出した。ファッションセンスは残念だしナルシストでマイペースだが、こういうことができるのはポイントが高いと思う。ファッションセンスは残念だが。

「寒くなってきたねー」

「ああ。そろそろ雪が降るだろうな」

 リリアンが空を見上げる。木枯らしの吹くオックスフォードの空は重たい曇り空だった。今日も町はすこし薄暗い。

「あのね、あそこのツタの葉っぱ、風でほとんど飛ばされて、今6枚しかのこってないんだよ」

「なんだそりゃ。『最後の一葉』か?」

「そんな感じ」

「アホかお前」

 隆弘が笑った。口調は優しげで、足がリリアンよりも10cmほど長い彼はわざとゆっくり歩いてリリアンの歩調に会わせてくれる。

「ねぇ、隆弘」

「なんだ」

「ベアマンさんはなんで壁に葉っぱの絵なんてかいたんだろうね」

 リリアンは医学生で、隆弘は政治経済専攻だから、こういう文学に関してはほぼ無縁だ。けれどお互いに本の虫ではあるのでとりとめのない会話に小説の話題が上ることも多々あった。
 隆弘はフン、と鼻を鳴らしてタバコの煙を吐き出す。それからリリアンの手を、少し強く握った。

「命より大切なモンがあったんだろ」

「ジョンシーを助ける為に、自分の命を犠牲にした?」

「いや。きっと自己犠牲じゃねぇ」

「じゃあ、芸術に捧げてきた、自分の人生の意味とか」

「それもしっくりこねぇな」

 青々と茂る芝生の公園を通り過ぎると、ひときは冷たい風が吹いてきて2人の体温を奪う。
 隆弘はタバコを口にくわえたまま、重い灰色の空を見つめた。

「自分の人生の意味――日々の積み重ねとかそういうこっちゃねぇぞ。自分が今できること、可能性」

 リリアンが男を見上げると、コバルトグリーンは相変わらず空を見つめていた。綺麗な色だ。

「自分がやれると思ったことをやらねぇで、その可能性が消えちまったら、きっと後悔する。その時、自分のプライドが死ぬんだ。後悔は誇りが散ったあとに残る破片の傷だ」

「だとしたら、ベアマンの人生はきっと傷だらけだろうね」

「だから、きっとこれ以上傷が出来るのは嫌だったんだろうよ。俺だってそんなもんを抱えて生きるくらいなら死んだ方がマシだ」

 『死』なんざ、希望の前じゃなんの障害にもならねぇ。

 そう、やたらハッキリした口調で告げた男は、リリアンの手を更に強くに握ってきた。

「……雨が降りそうだ。急ぐか」

「……そうだね」

 リリアンも男の手を握り替えして、少しだけ歩調を早める。

『最後の一枚が散るとき、わたしも一緒に逝くのよ』

 枯れた蔦の葉が木枯らしに揺れるたびにこの言葉を思い出す。ベアマンは壁に蔦の葉を描き、肺炎になって命を落した。結果として若い芸術家の卵は生きる気力を取り戻した。
 ベアマンが守ったのは未来ある若い命だろうか。芸術という壁にしがみついていた自分の人生の意味だろうか。

 それとも、自分の中にある、希望という可能性だろうか。

 もしも自分がベアマンだったなら――と、リリアンはとりとめもなく考える。
 まずあり得ないだろうが、万が一、自分の命と引き替えでなら、目の前の男を助けられるという場面に遭遇したら、自分はどうするのだろうと。

 隆弘はきっと、2人とも生きるというだろう。彼が命を投げ出してでも守り通したい希望はいつだって明るくて、太陽のように輝いている。

 だから、と、リリアンは思う。

 西野隆弘という、眩しい可能性のためならば、その希望のためならば、自分は喜んで命を差し出すのだろうと。

 いつか死ぬ時は、目の前の男の――西野隆弘という名の希望に傅き、輝きに祈りを捧げて死にたいと。

 彼女はいつだって、『西野隆弘』という、燦然と輝く太陽のために、自分の人生の意味のために、命を投げ出す覚悟ができていた。

 『最後の一枚が散るとき、わたしも一緒に逝くのよ』

 その最後の一枚は、決して散ることがないけれど。それほど強いものだけれど、だからこそ、彼女はその最後の一葉に、自分の全てを捧げる覚悟が、できていた。
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