※イフの話。親子にこんな未来はこない。 母の日、といえば自身の母親に日頃の感謝を込めて贈り物をする日らしい。らしい、というのは年端もいかない頃に母親に捨てられた自分にとって母の日というのは無縁だったからだ。母の温もりも愛情も知らない自分には至極滑稽な日だと思うが、それはもう過去の話だ。 月が美しいあの秋の夜、自分を捨てた母親と邂逅し、後悔しているのだと静かに語っていた姿。 伝えたい事実を下手な笑みの裏に隠し、二度と逢うことのないだろう母の背を見送り──… だったのだが、半年も経たない内に親子として再会するという皮肉な展開になり。 頑なに母を遠ざけようとする自分をお節介な友人達に諭され、紆余曲折を経て(女顔負けの端麗な容姿を持つ白い髪の友人に顔面を容赦なく思いっきり殴られたことは一生忘れないだろう)現在は短い間だけだがこうして一緒に暮らしている。 そんな経緯を思い出しながら、青年は切れ長の桔梗色の目を先ほど読んでいた論文から自身の母親に移す。 熱心に文献を読みふけっているせいでこちらの視線には一切気付いていない。 濡れ羽色の長い髪、深海のような色を湛えたサファイアブルーの瞳。 自身の容姿があのろくでもない父親似だというのを差し引いてもあまりにも彼女と似似ていない。言わなければ確実に親子だと分からないだろう。事実、親子だと友人達に告げればひどく驚いていたのだから。 何より母が実年齢より若々しい容姿をしているのが理由としても挙げられる。40は越えているはずなのに、どうみても20代にしかみえない外見をしているのだ。下手をすれば息子の自分よりも年下にみえるのだから恐ろしい。 「?なあに、ミカゲ」 「…、いや」 ミカゲの視線に気付いたシオンが不思議そうに問い掛け、その返答に「変な子ね」とくすくす笑われてしまう。 今は親子として穏やかな時を過ごしているが、先にも述べた通り今こうして母といられるのは紆余曲折を経てなのだ。 父親は、暴力を奮う男だった。 息子である自分にも暴力を奮っていたのだから、母にも同じ事をしていたのであろうのは想像に難くない。そのろくでもない男の元から逃げ仰せたというのに、父の面影を色濃く持つ自分がいては苦痛だろうと自分から遠ざけるために心ない言葉を吐き傷付けてしてしまった。 ここまで来るのに随分遠回りをしたとミカゲはそっと息を吐く。まあ、大半は自分のせいなのだが。 (…母の日、か) 一年に一度しかない日だ。ならば今日ぐらいは素直になってもいいのかもしれない。 目を通していた論文は完全にそっちのけになり、集中力も続きそうにない。 適当に片付けをしていれば構ってもらえると思ったブラッキーが紅い瞳を煌々とさせながらじゃれつき、小さな頭を撫でてやる。 無造作に身支度を済ませ、少し出掛けることを母に告げ外に出る。 行き先は既に決まっているから目的地に向かって歩くだけだ。 ある一件の和菓子屋が見えてくるとブラッキーが嬉しそうに駆け出し、戸の前で尻尾を振りながら今か今かと主人であるミカゲを待つ。 「おや、珍しいお客はんやな〜」 戸を開ければ中から間延びした声。和装姿に月白色の髪を結わえた青年が店内から出てくる。 「ミカちゃんはツバキやシラヌイと違うていっこも来てくれへんからなあ〜」 わざとらしく大袈裟にため息をついたカグヤを無視し、ミカゲは陳列されている和菓子を見やる。 といっても甘いものが大の苦手である彼にとって自身の母がどれが好物なのか分からない。とりあえずこの店の人気商品を買えば間違いないだろう。 「なあ、カグヤ───」 「シオンはんに買うていくん?」 全く予想だにしていなかった名前にミカゲの切れ長の桔梗色の目が僅かに見開かれる。 カグヤを見ればふふんと得意気な表情をしており、意気揚々と口を開く。 「甘い物が苦手なミカちゃんがわざわざ和俺の店に和菓子を買いにくるはずないやん?何より今日は母の日やから、ミカちゃんが甘い物が好きなシオンはんのために買いに来たんやろうな〜って。どうや?俺の名推理?なあどうや?」 「(うぜー…)」 紅緋色の瞳を輝かせながら頻りに問い掛けてくるカグヤにミカゲは辟易しながらじとりとした視線を送るも、本人は意に介さず。ミカゲは面倒臭さに無視を決め込みながら和菓子を選ぶ。 「ああ、シオンはんはいちご大福が好きでよう買うてくれるんやで。それから饅頭も。お団子もやなあ〜」 まあ、シオンはんならミカちゃんの選んだ物ならなんでも喜んでくれると思うけどなあというカグヤの言葉を背に聞きながら、母がよく買うのだという和菓子を購入し会計を済ませる。 「…ミカゲ」 「あ?」 丁寧に包装された和菓子が入った紙袋を受け取りながら、普段のふざけた呼び方ではない自身の名を呼ぶカグヤの声にミカゲは怪訝そうにする。 「…大切にするんやよ」 紅緋色の瞳がどこか寂しそうに細められる。 主語もない一言だけの言葉だが、ミカゲには伝わったようで「ああ」と表情を緩めさせる。 今は亡き優しい母との思い出を脳裏に浮かべながら、僅かに滲ませた紅緋色の瞳に店を出ていく友人の姿を静かに見送った。 * * * 「あら、お帰りなさい」 シオンはサファイアブルーの瞳を読んでいた資料から帰宅した息子へと目を向ける。 (………?) ただいま、と挨拶はそこそこに。それ自体はいつものことなので特に気にすることではない。けれど、切れ長の桔梗色の瞳は珍しく所在無さげに視線をさ迷わせている。 「ミカゲ?どうしたの?」 「…あー、いや…」 歯切れの悪い返事をする主人に、傍らにいるブラッキーが何かを促すようにじっと見つめている。 本当にどうしたのだろうか。もしや体調が悪いとか?心配に息子をまじまじと見れば顔色は至って普通だ。 「…あの、さ」 いつまでも黙っている主人に「早くしろ」というようにブラッキーに尻尾で叩かれ、ミカゲは気恥ずかしそうにゆっくりと口を開く。 「…今日、母の日だろ?…だから、その…」 口ごもりながら右手に持っていた紙袋を差し出されシオンは一瞬訳がわからずきょとんとするが、ミカゲの口から出た“母の日”という単語にあ、と声をあげる。 「私に…?」 「他に誰がいるんだよ」 「そ、それはそうだけど…。ええと、母の日だからこれを私に…?」 ミカゲの代わりに側にいるブラッキーが肯定するように元気よく鳴く。 ふわりと甘い匂いが漂う。そういえば、この紙袋は息子の友人が経営している和菓子屋の物だと今更ながら気付く。嬉しさから自然と笑みが零れる。 「…ありがとう、ミカゲ」 シオンは幼子にするようそっとミカゲの頭を撫でる。ガキじゃねえんだからやめてくれ、と突っぱねるも母は相変わらずふふ、と楽しそうに微笑してる。 「母親にとって子供はいくつになっても可愛いものなのよ」 「…つってももう25なんだがな」 呆れ気味にミカゲは息を吐く。ようやく自分の頭から母の手が離れる。母親のことは嫌いではないが、やはりこの年で頭を撫でられるというのは気恥ずかしい。 子供のようにサファイアブルーの瞳を輝かせながら、いそいそと鼻歌でも歌い出しそうなほどに上機嫌にお茶の準備をしている母親の姿を横目で映し、ミカゲは小さくふ、と笑う。 「ミカゲ」 休憩がてらコーヒーでも淹れようと思い立ったところに母が自分の名を呼ぶ。何だろうと目線だけをそちらに寄越せば、喜色満面の笑み───…の中に、ほんの僅か、どこか涙を堪えているような、そんな母の表情。 「…母さん?」 「…本当に、ありがとう」 身勝手な理由で年端もいかない息子を手放してしまったあの日。 自分の息子を捨てた女だ。拒絶され、恨みや憎しみの感情を抱かれるのが当然だろう。 でも、鮮やかな美しい桔梗色の色彩を持つこの子はそれらを全て否定し、こんな自分を母親だと呼んでくれ。 それにどれだけ済われたことか。どれだけ身に余る幸せなことか。 「私を母と呼んでくれて、ありがとう」 情けなく視界が滲む。鮮やかな美しい桔梗色は困ったように、けれど優しく笑みを浮かべていた。 |