15.粉々に崩れた
「…ユイ、…ユイ。行こう、俺と」
「……め、さん…。でも、わたし…」
遠くから、低い声でわたしを連れて行こうとする人がいる。わたしは、その人についていきたいのに…、誰かに肩を掴まれていて動けない…。
ゆらゆらと身体がゆれる。
そして、今度は違う声の人がわたしに呼びかけてくる。
「…ちゃん…、ユイちゃん…おきて…」
「………ん、ん…」
「お風呂、入らなきゃ。…ユイちゃん」
「……ん…」
意識が引き戻されるうちに、はっきりとした情景が頭に描かれてゆく。逃避していた現実はやっぱり変わらずで、ゆっくりと目を開ければ、濡れ髪にタオルをかけた総司さんがいた。
黒いパジャマに身を包んだ見慣れぬその姿に、何故かわたしは焦りを覚えた。
「退院してすぐここに来たから、疲れちゃったんだね。…お風呂、どうする?」
「…あ、…い、戴き、ます…。」
「うん。案内するね。僕は一旦部屋から出るから、支度できたら教えてね。はい、これ着替え入れに使って。」
「はい…」
わたしの服が詰められたタンスの上に置かれた時計は23時近い。そうか、もう、そんな時間なんだ…。
渡された小さなかごに、下着と寝間着を詰め込み、ベッドに放りっぱなしのスマホに目をやった。
「………」
スマホの初期設定もできないまま。アカウントのパスワードも思い出せないからこのままじゃ使えない。だけど新規アカウントを取ってしまえば、過去の履歴が消ええしまう。
どうしようかと思い巡らせていれば、扉からコンコンと小さくノック音が聞こえた。
「ユイちゃん? 支度できた?」
「あっ、…はい…!」
考えるのはもう、明日にしよう。
ひとまずお風呂に入って、眠ってしまおう。
きっと、眠る時とお風呂以外……一人になれないだろうから…。
「す、すみま、せん」
「また眠っちゃったかと思ったよ?はい、これ。」
「??」
また総司さんからかごを渡される。
中を見れば真新しいシャンプーにトリートメント。ボディーソープにボディタオル、歯磨き粉に歯ブラシまで入っている。
「これ…」
「うん、ユイちゃんのお気に入りをおばさんに聞いたんだ」
「………っ」
「どうしたの?もしかして、ちがった?」
「っ、いえ…!お、同じ、だった、から…びっくりして…」
「…良かった」
総司さんはほっとして、肩を落とした。
…やっぱり、こういうことをされると…総司さんの中にある優しさを探してしまう。
期待をしてしまう…。
そのまま受け入れてしまえば、わたしはきっと楽になれる。わかっている。だけど何かが引っかかって、だめだと警鐘を鳴らす。
その何かが、未だにわからない。
忘れる前の記憶がわたしを守る為に、そうしているのだろう。ということだけは辛うじて理解できるけれど…
できたところでわたしに逃げ場所があるのだろうか…。
「こっち、まだお部屋の案内済んでないでしょ?」
「は、はい。」
リビングを挟んで玄関へと向かう廊下にある扉2つ。玄関よりの扉がトイレで、その隣が浴室だった。
「それじゃ、ごゆっくり」
「………」
やっぱり、新築なのだろう。
真新しい洗面台に、使用感のない洗濯機。
並べられた洗濯洗剤と柔軟剤も新品で、これらもまたうちと同じ物。…総司さんが母から聞いたのかもしれない。
なるべく、うちと同じ物を、と。
「………」
新しいとはいえ、いわゆる他所様の人の家…。これだけ馴染のあるものに囲まれていても、居心地は良くない。
入院中はシャワーばかりだったから、本当はあたたまりたい。だけど、どうしても浴槽に浸かる気になれなくて、手渡されたボディタオルで手早く身体を洗い、髪を洗って用意されていたタオルでさっさと身体を拭いた。
「さむ…」
冬に差し掛かった季節だから、本当は寒くて仕方ないけれど、布団に潜れば何とかなるだろうから、急いで身支度を整えた。
がたがた震えながら髪の水気を取り、パジャマを身に纏って部屋へ向かった。
リビングへ向かう扉をあけて、危うく総司さんとぶつかりそうになった。
「!!」
「…!びっくりした、……ずいぶん、早いんだね」
「…あ、すみま、せん…」
「ごめんね、ドライヤー用意してなかったから」
「……あ」
箱に入ったままのドライヤー。
何から何までが新品。とてもじゃないけど、それを甘んじて受け入れるなんてできない
「あの、お金…払い、ます…」
「………っ」
「…?」
細かいものばかりだけれども、どれもこれも新しくてわざわざ購入してもらって…。それがわたしの意志じゃないとしても、いたたまれなくて支払いを申し出れば、総司さんの表情はみるみる曇ってゆく。
「なん、で、…そういうこと言うの…っ!?」
「!?」
「夫としてお嫁さんの好きなものを揃えただけなのに、養うのは当たり前なのに!! どうしてそういうこと言うの!?」
「…総司、さん…!?」
「ぼくは……!」
「っ!!」
肩を掴まれた感覚のあと、視界がぶれた。
頬に、わたしじゃない髪が触れる。
さらりとそれは流れ唇が塞がれて、総司さんの香りが否が応でも鼻腔に流れ込む。
「…いやっ!!」
思い切り暴れ、総司さんの胸を押して身体を離して唇を拭う。
総司さんに重ねられた唇を…わたしは思い切り拭った。
口付けられた感触が、ぞわりと背筋から這い上がる。嫌悪感、というより違和感をまっさきに感じた。
この人じゃない。という違和感
「………ユイちゃん…、君は、──君は僕を…」
「…!?」
僕を拒むことなんて、出来ないからね…!
これまで以上に怒った総司さんは、今まで持ち合わせていた優しさを掻き消す程に暴れ狂っている。
何も受け付けない。わたしの意思すべてをも。
その目線だけで、わたしは今までの淡い期待を粉々に打ち砕いた
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2016/02/29
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