18.前を見据えて

リビングへの扉を開ければ、見慣れた人物がキッチンに立っていた。


「お、かあ…さん」


わたしの声に気づいたお母さんは、ちらりとだけこっちを見て、ハンカチで手を拭きながらそれ以上わたしと目を合わせようとせず、背中を向けて自分の荷物をまとめ出した。


「総司さんから連絡いただいたのよ。お粥できてるからそれ食べて寝なさい」
「ありがとうございます。僕、自炊したことないから助かりました」
「いいえ、わたしもまだこの子に大した家事を教えていないですから、困ったことがあったらいつでも呼んでくださいね」



「………」



わたしを置いてけぼりにして、スラスラとテンプレートのような会話が繰り広げられている。にこにこと微笑み合うふたりの笑顔が、どうしてもどす黒いものに感じられ、わたしは自分の荷物を引っ掴んで与えられた部屋に入り、固く扉を閉めた。

ベッドの中から掛布をひきずりおろし、それを頭から被って部屋の隅に身を潜めた。

そんな事をしたって何になるんだろう。意味のない行動なのは分かっているけれど、どうしてもこのベッドに横になりたくはなかった。

ここは、敵だらけ。唯一の味方は、わたしの頭の中で鳴り響く警鐘だけ。

このまま、眠って。せめて朝には熱が下がってくれるよう、もらった薬を水もなしに呑み込んだ。無理矢理に奥に押し込んだ錠剤は、喉の途中で引っかかり異物感を訴えて咽させる。吐き出さないよう、口元を押さえ、被った掛布を強く握りしめ、胸のつかえが収まるまでじっとしているしかなかった。


はやく、はやく…。


はやる気持ち、今はそんな言葉があっているのかもしれない…。
寄りかかった壁を這うように、ずるずると音を立てながらうずくまり、硬く目をつぶって時がすぎるのを待った。



「ユイ、ちゃん?…お粥、持ってきたよ…」
「…………」


薬が効きだして、ウトウトとしかけた頃。軽いノックをひとつ鳴らしてから、総司さんから部屋に入ってきた。ビクンと身を震わせうずくまるわたしに気付いたのか、手に持ったトレイをテーブルにおいてこちらに近づいてきた。

散らばった薬の袋に視線を落とし、ゆっくりとした所作でそれらを拾い集め、またそれをテーブルに置いた。
なぜだかその動作が恐ろしくて、これ以上後ずさることが出来ないというのに、背中をピッタリと壁につけて身体を縮こませた。


「薬だけ、飲んだの?なにか食べないと。せっかくおばさんが作ってくれたんだよ?」
「…………」


掛布を握りしめ、首を横に振り続ける。

続く沈黙に耐えられず、もう一度頭から掛布を被ろうとして…また腕を掴まれた。恐怖に戦慄いて見上げた総司さんの表情は、やはりあの時のように怒っているのに笑顔で。


「………っ!」


すう、と総司さんの周りの空気が一瞬冷えた気がした。


「わがままも、いい加減にしようか」
「…っや…!!」


掴まれたままの腕を引っ張られ、今度は横抱きにされる。暴れたくても抱き上げられた勢いで、また頭が痛み、されるがままベッドに身体を沈められた。

この歳でこの先何をされるかわからない訳なんてない。男の人の力に敵わないことなんてわかっている。だけど、絶対にそんなこと嫌だ、と痛みに顔をしかめながら力の限り暴れた。


「暴れないで、ほら」
「やっ…、は、はな、して…!」
「…っ」


小さな舌打ちのあと、力の限り身体を押さえこまれた。「いやだ」と叫ぼうとして、口元を抑えられ、今度は恐怖で全身が強張る。それを大人しくなったと思った総司さんは、ふ、と困ったように微笑んでわたしの身体から離れた。


「いくら何でも、なにもしないよ。…ユイちゃん、朝から何も食べてないでしょ? そんなんじゃ、治るものも治らないよ。」
「………」
「はい、これ食べて温かくして眠って」
「………」


床に落ちた掛布をわたしの膝にかけ、その上にお粥の乗せられたトレイを置いた。
まだ湯気の立つそれは懐かしい物。だけど、あの変わってしまったお母さんの作ったものだと思うと、手が進まない…。

ぽん。と頭をなでられるけれど、手つきは優しくはない。そして、にこりと微笑むその笑顔はとてつもなく冷えている…。


「ユイちゃん…、そんな事をしたって無駄なんだからさ…」
「………っ」


また、言葉の刃を向けられる。
こうやって、わたしの心を少しづつ削っていこうというのだろうか…。

そんな事になんて、絶対にさせない…!

レンゲを手に取り、掻きこむようにしてお粥を口の中に流し込んだ。熱のせいで味なんてわからない。

そのわたしの様子を見て、総司さんはベッドの傍らで微笑み続けている。

その微笑みの意味なんて分からないし分かりたくもない。わたしは、ここから逃げるために身体を治さなければならないんだ…!


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2016/03/09


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