降谷暁という男は、どうやら強豪といわれる我が校の野球部でエースを務めているらしい。らしい、というのは、わたしは野球のルールはまったく知らないため野球部には興味がないうえに彼との共通点は同じクラスに属していることしかないからだ。

教室での降谷くんには、静かという言葉がぴたりとはまる。教科書を読む声は小さくて席が遠いとよく聞こえないし、休み時間はひとりで窓の外を見ているか寝てるかだし。つまり、目立たない。だから、知らなかったのだ。席が近くなければフルネームすら曖昧で会話することもないまま別れただろう降谷くんに、心臓を掴まれる日がくるなんて。


「すごいまた三振!!」

隣で興奮したように騒ぐ友人になかば強引に連れてこられた練習試合。塁とやらを一周すれば一点入る、打ったら走る、という簡単なルールだけ直前に教えられ、暑い夏の陽射しの下でネットの向こう側を眺めていた。スタメンとして出てきた降谷くんは、バッターなんていないかのように白いボールをキャッチャーに投げる。その様はいつも見ている彼とは別人なんじゃないかってぐらい気迫に満ちていて、彼のボールの速さに比例するようにわたしの拍動も激しくなった。


・ ・ ・


青道の勝利で試合は終わった。五回を終えたところで降谷くんはベンチに下がってしまったけれど、心臓の高鳴りはやまないまま。

「名字さん」

初めての熱を抱えながらグラウンドに背を向けたところで、わたしを呼んだのは小さな声。ともすれば聞き逃してしまいそうなそれに、肩が跳ねた。降谷くんと話したことなんて二度あるかもわからないのに、わたしを覚えていたなんて。

「見にきてたの」
「あ、うん。えーっと、おめでとう」
「ありがとう」

無表情に言う降谷くんに戸惑う。友人はちょっと離れたところでニヤニヤしてるし。そんなんじゃないのに。

「明日……」
「ん?」
「明日も試合があるんだ」
「そ、そっか」
「うん」
「…………えーっと、頑張って?」
「うん」

沈黙。どうやら降谷くんは話を繋げるのが下手みたいだ。これ以上なにを言えばいいんだろう、と言葉を探しているとサングラスをかけた人が降谷くんを呼んだ。きっと片付けとかがあるんだろう。邪魔しちゃいけない。じゃあね、と踵を返す。それと同時に手首を包んだ固いなにか。反射的に見た降谷くんの顔は、試合中と同じ色をしている。

「明日も、見にきてほしい。名字さんがいてくれたらもっと頑張れる」
「…………はい」
「それじゃ」

もう一度聞こえた急かす声を合図に、降谷くんはフェンスの向こうに走っていく。心臓の鼓動はおさまらないまま、手首に新たな熱が生まれた。


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