※二年の春休み



リビングからお皿の割れる音がした。またか、とため息を吐いて布団から出る。

床に転がった鍵をジャージのポケットに突っ込んで玄関の扉を開けた。両親はきっと自分たちに夢中で気がついていない。



ふらふらと歩いて、そこそこ大きな本屋に来た。雑誌でも立ち読みしていれば、時間が経つのはあっという間だろうから。幸いなことに、ここは24時まで営業している。

自動ドアをくぐって、誰もいないレジの前にあるファッション雑誌のコーナーに向かう。

と、見覚えのある顔を見つけた。二年ぶり、だろうか。都内にある野球の強豪校へ進学した彼は、最後に見たときより背が伸びた気がする。しばらく見つめていれば相手もわたしに気付いたみたいだ。

「……名字?」

「久しぶり、伊佐敷」

「お、おー……」

なんだか様子がおかしい。なんていうんだろう。ああそうだ、挙動不審。目線はわたしの頭上にある。その理由は、伊佐敷の手元を見ればすぐわかった。

「少女漫画買うの?」

「ちっがっ、これは姉ちゃんに頼まれたから!!俺が読むんじゃねぇ!!」

「読まないんだ?」

「読まねっ……ことも、なくもなくも、ない……」

「ふは、どっちよ」

焦る伊佐敷が面白くて、中学のときから変わってなくて、笑った。そうだ、野球はできるけどおばかだった。あと少女漫画が好き。

「お、お前は何してんだよ」

「立ち読みしに来たの」

「一人か?」

「うん」

「じゃあちょっと待ってろ。すぐ買ってくる」

「うん?」

いまなんて? 聞き返そうとしたときには、伊佐敷はもう財布を取り出してタイミング良く来た店員にお金を渡していた。


「行くぞ、アイスおごってやる」

「おお……」

右手に本屋の袋をぶら下げてわたしの二歩前を歩く。どうしたんだ伊佐敷。


「なにがいい?」

「ほんとにいいの?」

「早く言え。バニラにすんぞ」

「いちごください」

「バニラ嫌いは変わんねぇな」

小さく笑って、伊佐敷は赤く光るボタンを押した。高校生にはちょっと高級な120円のあれ。

「ほれ」

「ありがと」

がたんと音をたてて落ちてきたピンク色のそれを受け取って、車止めに座る。どうせこんな時間じゃ誰も来ないし。伊佐敷も隣の車止めに腰をおろした。チョコにしたみたいだ。

「いつ帰ってきたの?」

ぺりぺり。アイスの紙をはがしながら訊く。

「今日。休みだからって母ちゃんに呼び出されたんだよ。部屋の片づけ手伝わされた。練習あるから明日の朝には寮に戻るけどな」

「強豪校って大変なんだね」

アイスをなめると甘いいちご味が舌に広がった。3月とはいえ、まだ肌寒さは残る。少しだけ風が冷たく感じた。

「まあ、楽しいけどな」

「ふぅん」

アイスにかぶりついて言う伊佐敷は、なんだか輝いて見えた。

「名字は?」

「わたし? 特になにもないかなあ。部活も入ってないし」

「楽しくねぇの?」

「……楽しいよ?」

「ふーん」

溶けて柔らかくなったところをかじった。歯形がつく。伊佐敷のアイスはもう3分の1ぐらいしか残っていない。わたしのは半分ちょっと。

「春休み終わったら、3年生だね」

「そーだな」

「受験生だよ」

「俺は最後の夏だ」

「ああ、甲子園?」

「おう。今年は行けなかったからな。次こそ行く」

「頑張って」

おう。伊佐敷が最後の一口を食べ終わった。早い。手持ち無沙汰なのか、白いアイスの棒を噛んでいる。

「伊佐敷、帰っていいよ?明日早いでしょ?」

「や、お前送ってく」

「え、いいよ」

「こんな時間に女一人じゃ危ねえだろ」

有無を言わせぬような声で言うものだから、おとなしく首肯する。

とりあえず急いでアイスを食べ切った。

「行くか」

立ち上がって、軽くお尻を払う。棒は伊佐敷がさりげなく捨ててくれた。両親の喧嘩は終わっているだろうか。

「チャリ?」

「ううん。歩き」

「じゃあちょっと遅くなるな」

「別にいいよ」

「よくねーよ」

伊佐敷がわたしの一歩前を歩く。大きな背中は、記憶の中の彼とは違った。

「…………」

「…………」

数メートルごとに設置された街灯のあかりはどこか落ち着かない。伊佐敷との会話も途切れた。

ふと、隣に長い腕が並んだ。歩調をゆるめてくれたのだろうか。肩の下から顔を見上げるが、暗闇にまぎれて表情はわからない。

すぐそこの角を曲がれば、もう家につく。そのとき、後ろから車のエンジン音がした。車道側の伊佐敷は一歩わたしの方に寄って、わたしは半歩だけ左にずれた。

そうしたら、距離が狭まって、伊佐敷の左手とわたしの右手が、ぶつかった。

「あ、わりぃ」

「いや、わたしも」

「…………」

「…………」

小指になにかが触れる。なにか壊れやすいものでもさわるみたいに、優しく。

それが伊佐敷の人差し指だと認識したとき、わたしの右手は彼の大きな左手と重なった。


 戻る
ALICE+