東京に行く、と純が言った。
コンビニに行くみたいな軽いノリで。けれど力強く。
純が素振りしているのをベンチに座って眺めていたわたしは、マヌケな顔をしていたと思う。
「東京……?」
「おう。推薦もらったんだ。青道高校ってとこ」
ぶん、とバットが空を切る。聞いたことある。確か東京の野球強豪校。
「じゃあ、こっちでは進学しないの……?」
「まあな。せっかくだから自分の力を試してぇ」
純とは家が隣で、幼稚園も小学校も一緒だった。当然同じ中学に進学して、そこから先も一緒だと、理由もなく思ってた。
なのに、どうして。
純が野球で注目されてるのは知ってる。シニアで活躍してたのも知ってる。応援だって何度も行った。
高校でも野球を続けるのはわかってたから、わたしはマネージャーになるって決めてた。地元の高校の、マネージャーに。
「じゃあ、離ればなれになっちゃうね」
「あー、そうだな」
またバットが空を切る。同時にオラァって純が叫ぶ。何度も何度も聞いたそれは、耳に染みついて離れない。
「寮に、入るの?」
「多分な」
「そっか……」
会話は途切れた。9月なのに、風がやけに冷たかったのを覚えている。
・ ・ ・
それから今日まで、純との会話はなかった。
卒業式は午前中だけ。そのあとは泣きながらクラスメイトと別れて、友だちとお昼ご飯を食べに行って、プリクラを撮って、帰ってきたら15時を少し過ぎていた。
もう着ることはない制服を脱いで、ジャージに着替える。ベッドに寝転がると、懐かしい素振りの音と純の声が頭の中に響いた。
今日も、バットを振っているんだろうか。
ゆっくり起き上がって、パーカーを羽織った。お母さんにちょっと出かけてくる、と言って玄関を出る。行き先は、近くの公園。
めったに人の来ないここは、純専用の素振り場所だった。
「純」
小さく名前を呼んで、三歩離れた場所に立った。
「おう」
「今日も、やってるんだね」
「明後日には東京だからな」
「そっか」
明後日。明後日になったら、純はもういない。
「座んねぇの?」
「……座る」
言われて、いつものベンチに腰をおろす。純が素振りをする横にあるベンチ。わたしの定位置。
前と違うのは、純が隣にいること。
「え、素振りは?」
「休憩」
「……ふぅん」
「なんか名前見るの久しぶりな気ぃする」
「ずっと、話してなかったから」
「お前忙しそうだったしな」
「まあ、塾とかあったし……」
つま先を葉っぱがかすめた。サンダルの隙間から入ってきた風は、ほのかに冷たい。
「避けられてると思ってた」
「……そんなこと、ないよ」
「ならいいけど。なあ、手ぇ出せ」
「手?」
いきなりの命令に戸惑いながら右手を差し出す。ジャージのポケットに手を突っ込んだかと思うと、やる、という声に続いて手のひらになにかが落ちてきた。
くすんだ金色の表面に校章が描かれているそれは、紛れもなく制服のボタン。
「渡そうとしたらもう帰ってたから、今日会えて良かった」
「第二ボタン?」
「おう」
「こういうのは、好きな子に渡すんだよ」
「俺は名前に渡したかったんだよ」
手のひらにあるボタンを見つめていると泣きそうになって、慌てて唇を噛んだ。
「泣くなよ」
「っ、泣いてない」
「声震えてるし」
馬鹿にするような声で笑うから、ももを叩いた。次口を開いたら、きっと堰を切ったように涙がこぼれてしまう。
「正月とかには帰ってくるから」
「っ、」
「一時間半の距離じゃねぇか。大したことねぇよ」
ああ、だめだ。止められない。泣きたくないのに。
「二度と会えなくなるわけじゃねぇし」
純の無骨な指が涙を拭う。
「な、だから泣くなって」
なんで東京なの。神奈川じゃだめなの。離れたくないよ。寮なんて入らないで。行かないで。
言いたいことはいっぱいある。でも、言ったらだめなことはわかる。だから。
「絶対、甲子園出てね。レギュラーになってね。応援してるからね」
「当たり前だろ」
そう言って純は笑った。さっきとは違う、力強く、決意に満ちた目で。
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タイトルは告別様からお借りしました。
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