生きていることが、果たして幸せと言えるんだろうか。

暗闇に君臨するあの衛生に聞いてみても、答えが返って来るはずもない。



いたって普通の夜。
あえて言うなら、浮かぶ月はいつもより白いだろうか。
空気も少し冷たく感じたが、自分が今いる場所を思い出して合点がいった。
夜中のマンションの屋上なんてこんなものだろう。
上着を着てくるべきだったかもしれない。
……いや、どうせ必要ないか。

肩を軽く撫で、柵にもたれて景色を眺める。
夜の街並は細かい光を放っていて、人口の多さを物語る。


あの中に、私のような人間はどれだけいるのだろうか。



幼い頃のこと。
母が男を作って出ていった日から、父は徐々に壊れ出した。

元々プライドが高いうえ、甘やかされて育ってきたらしい彼の自尊心を傷付けるには、十分すぎる出来事だったのだろう。

家事も、生活のやりくりも出来ないストレスは相当なものだったようで、酒とギャンブルに溺れていくのに時間は要さなかった。
そしてどこで知り合ったのか、胡散臭い金融会社に言われるがままに作った借金は、いつの間にかとんでもない額になっていた。

そんな男との暮らしは、幸せとはかけ離れていたように思う。
酔った父が手を上げることはざらにあったし、借金取りが家に来て怒鳴り散らすこともあった。

辛いだけの日々に、泣いてばかりだった。
けれど私は、父を恨んだことはない。


高校を卒業して社会に出てからは、未だ増え続ける借金を返す為にとにかく仕事だけの生活。
昼は会社員、夜はキャバクラと寝る間も惜しんで働く毎日が、数年続いていた。

父は今でも相変わらずの生活をしていて、世間的には最低と思われる人間であろう。
それでも私にとっては、たった一人の家族。

自分の生活ですら大変な環境下、幼い私に食べるものや寝る場所を与えてくれていた。他の家庭では当たり前のことであっても、私にとってそれらはとてもありがたいことだった。

何の役にも立たない子供の私なんて切り捨てて、少しでも生活を楽にする選択だってあっただろうから。

父がそうしなかったのは、きっと心底には私への愛情があったからだと、そう思った。

だから、食事がろくに摂れなくても、寝る時間が僅かだろうと構わない。
働いて働いて、あの人に恩返しがしたかった。
そしていつか二人で自由に、幸せに暮らそうと。


−−−そう、思っていた。



あれは、今日のように白い月が妙に目につく夜だった。
ふらつく足で仕事から帰ると、あまり顔を合わせたくない金融会社の数名がいた。
あからさまに眉根が寄ってしまったことを後悔しながら用件を聞くと、答えたのは父。

驚きに目を見張ったのは、滅多に見たことのない笑顔の父がそこにいたから。

そして嬉々として言ったのだ。


「名前、皆さんから金利を下げてくれるとの報告を頂いたよ。」


予想外の言葉に、一瞬息が詰まった。

法外とも思えていた金利を唐突に下げるなんて不自然な話に、言い様のない引っ掛かりを覚えたから。
何も言えなくて、とりあえず相手の出方を伺っていると、再び口を開いた父が放ったのは何とも飲み込み難い言葉。


「じゃあ、父さんは今日はどこかに泊まるから。」


それを最後に部屋を出て行こうとするいきなりの言動に、思わず疑問が漏れた。


「え…?……お父さん…、?」


状況が飲み込めず、喉の奥から声を絞り出すが立ち止まってはくれない。

ほとんど反射的に駆け寄って腕を掴むと、とんでもなく強い力で振りほどかれてその場に倒れ込む。
そばにあったテーブルに激しく背中を打ち付けたけれど、痛みなんて感じなかった。
その場に倒れたまま見上げた父の顔に、先程の笑顔はない。
代わりに目に鋭い光を携えて、声を荒げた。


「大人しく俺に従え!何の為にお前を育ててきたと思ってる!」


吐かれた台詞はあまりに大きく衝撃的で、脳が揺れた。
間違いなく私の知っている声で落とされた、慣れ親しんだ言語のはずなのに、受け取るのに時間が掛かった。


呆然とする私に追い討ちをかけるように続いた声は、今度は冷めた色をしていた。


「ようやく女として使えるようになったんだ。役に立ってくれなきゃ、今までお前を育てる為に掛かった金を返してもらうぞ。」


冷たいままの視線をもう一度私に向けてから踵を返し、今度こそ父は部屋から出て行った。

先程とは違い、私の足が動くことはない。


歩く音が遠ざかって、玄関の扉が閉まる音が響いた刹那、急激に頭の芯が冷えた。
いつの間にか握りしめていた両の指先からも、温度は感じられなかった。

耳の中がわんわん鳴って、焼けついた胸が悲鳴を上げて、ばくばくうるさく脈打って、わけもわからないのに必死に喉を枯らした。

虚空を見つめたまま、巡る思考。

今、喋っていたのは、誰。
今、私の手を振りほどいたのは、誰。
今、私を残して出ていったのは、……誰。


耳にこびり付く言葉を、心が否定しようとするけれど。
心に深く刺さった言葉を、頭がしっかりと理解した。



ああそうか、私には何もなかったんだ。
友達がいない。頼れる人もいない。それでもあの人だけは私を愛していて、ずっとそばにいると思っていた。

でもそんなのは幻想だった。あの人の大事なものは私なんかじゃない。
借金してまでのめり込むようなものと、比べるまでもなかったじゃないか。





あの日、失くしたものは戻らない。

男達によって汚された体。
生まれて初めての経験、想像を絶する痛みと気持ち悪さ。どれだけ水を浴びても吐き気は治らないままで。
また来ると言っていた男達のにやけた顔は、私のこれからをいとも簡単に想像させた。

父によって砕かれた心。
向けられた目の中には、私が信じていた愛情など欠片も存在していなかった。
一緒に暮らしていたのは、道具として使う為にただ投資していただけ。
世界で一人の信頼できる家族だと思っていたのは、私だけだった。


今まで頑張ってきたのは、何だったんだろう。


恐怖、苦痛、悲哀、絶望。
存在する負の感情の全てを、一夜で味わったように思う。

大袈裟だろうか。
こんなことくらいで駄目になってしまう私は、甘いのだろうか。
もっと辛い状況下で、もがきながら頑張る人は確かにたくさんいるのだろう。

それでも私はもう、必死になって働く理由が、わからない。

あの人が育ててくれたと思っていたこの命も、存在する価値を見出せない。


頑張る意味は、あるの?










この場所に立ってからどれくらい経つだろう。
部屋を出る前に入れてきたコンタクトは、少し乾いているようだ。
もう買い足す必要もないけれど、これが最後の一つだったことを思い出す。
そんなことすらも世界が私を拒絶しているように思えて、乾いた目が水気を帯びたことを誤魔化すように上を向いた。

月に手が届きそうで、今まで住んでいたこの場所が存外高い建物だったということを知る。
日常の中でここに立つ機会があったら、もっと家賃の安いところに引っ越そうとか考えたのだろうか。

……もうそんなこと、どうだっていいけれど。


一つ息を吐く。
もたれていた柵から体を離し、今度はそこに手を掛けて、次に足を掛ける。

何度か繰り返して、あっさりと向こう側へと辿り着いたことが少し気に掛かった。
こんなに簡単に行けるなんて、子供が興味本位で登ったりしたらどうなるか。

しかし、すぐに思い直す。
どうせ明日からここは暫く立入禁止になるはずだ。
時間が経って開放された後も、入りたがる者なんていないだろう。


なかなかに冷静な自分が可笑しかった。
迷いの消えた人間に、恐れるものなどないということだ。


柵を越え、何の隔たりも無い状態で見た街並は、先程より少しだけ眩しい。

それを取り囲む空は酷く黒々と澄んでいて、脈打つ心臓が冷えた。


口を少し開き、吸い込んだ空気はやはり冷たくて。
いつだって暖かさに縁のない自分に嘲笑が漏れた。


一度ゆっくりと目を閉じて、また開く。
頬が濡れたのは、何故だろう。


自分でも驚く程に、頭の中は静かだった。
心が空っぽで、世界が色を失っていく。



生きていることが、果たして幸せと言えるんだろうか。

誰に聞かずとも、答えは出た。
簡単なことじゃないか。

死ねば終わる、なんてくだらない結論だろう。





そう、いたって普通の夜。

何てことはない。
広すぎる世界の中の小っぽけな命が一つ、消えるだけのこと。

私一人がいなくなったところで、世界は当然のように明日を迎えるのだ。

私には必要のない、明日。




ゆっくりと右足を上げる。


何か脳裏を過ぎるものとか、自然に浮かぶ思い出とか、そういうものが少しくらいあるのではと思ったけれど。

……ああ、やはり期待なんてするものじゃない。
私の人生は、何て無意味だったんだろう。


あの日無惨に千切れた糸が、絡んで絡んで首を絞める。


もう、終わらせよう。


心の中で呟いて、滲む視界には気付かないふりをして。




いち、にの、さん。


夜空へと一歩踏み出した瞬間、目の前に広がる黒。

それはまるで、幕引きのようだった。