キスなんかじゃ許さない
「木兎のばか!」


むしむしと五感を刺激する湿気臭い夕暮れに、怒鳴り散らす女が一人。目の前にいる男ーーー木兎光太郎は、大きな目をもっと見開いてこちらをみていた。


「な、なんでだよ!悪かったって…」
「うるさい!もう知らない!」


もう、知らない。自分で言ったくせに鼻の奥がつん、としてくるのが馬鹿らしい。弱さを見抜かれないようにくるりと背を向けて歩き出す。後ろから聞こえる大きな声にも動じず、ぐっと地面を見ながら唇を噛む。ばか、ばか木兎。明日は大事な日だって2人で話していたじゃないか。なんで、どうして!そう思えば思うほど虚しくなって縋る様に空を見上げる。オレンジ色に染まる夕焼けを見たってちっとも心は穏やかじゃなかった。


ーーーーーー


あの日から一週間。一方的にこっちから避けているが、今もなお木兎の顔を見つめれるような心中状態じゃない。近しい人にしか喧嘩をしたことは伝えていないが、なんとなく周りは察して遠巻きにわたしと彼のことには触れないようにしている。あれから連絡は何件か来ていたのだが見て見ぬふりをして携帯を閉じた。もう知らないと言った手前、自分から彼の側に近づきにくくなっている状況にもあった。こうやって消滅していくのか、と穏やかじゃない心の中でなんとか冷静な自分もいた。


「なまえさん、いますか」
「あ、…赤葦?」
「こんにちは。…いま時間いいですか?」
「う、うん」
「すいません、」


3年のクラスに赤葦が来た。木兎と同じ部活の副主将のクレバーな2年生。バカ元気が取り柄の木兎とは正反対の男だった。木兎と付き合っていたからか後輩にしてはよく話す間柄だったが、こうやってよばれるのは初めてだ。


「木兎さんと、喧嘩してますか」
「え?あー、うん」
「あの、仲直りしてもらえませんか」
「は、ハイ?」
「…最近あからさまに元気がなくて部活でもちょーやりにくいんです。」


反省はしているようなので、と付け足す赤葦はきっと木兎や木葉あたりが喧嘩の全貌を話したのだろう。後輩に取りまとめられるなんてなんて恋愛だろう、と思いつつ部活の為にわざわざ学年の違うのクラスまで足を運んでくれた目の前の彼はよくできた人だと思う。なんかごめん、と謝って、考えてみると伝えた。すると少し表情を緩めてありがとうございます、といった赤葦は可愛らしくて、人の心を掴むなあと思った。


「じゃあ、これで」
「うん。わざわざごめんね」
「いーえ、木兎さんには早く立ち直ってもらわないと困るので」
「お礼に今度なんか奢るね」
「…木兎さんと仲直りしてから、お願いします」
「はは…赤葦ってやり手、」
「よく言われます」


それでは、と赤葦が小さく礼をして去っていく。究極、余裕を持っていなかったわたしも悪かったのは分かっている。一方的に木兎を責め立てたが、本当は、彼ならしそうなことではあったのだし、許してあげる優しさがあってもよかったと今更思う。あんな奴だけどバレー部の主将で全国区のエース。忙しいのだって、すっぽかしてしまうことだって、わかってる。わかってはいるんだ。


「あ、あのみょうじ、」
「…?はい」
「今、1人?」
「そうだけど、」


赤葦と別れて教室へ帰る廊下を辿っていると、呼ばれた名前。振り返ると去年同じクラスだった男子からだった。次の瞬間出てくる言葉は案外とタイムリーで、心臓がどきりと鳴った。


「木兎と別れたってガチ?」
「ん?いや、別れてはまだ、ないよ」
「じゃあ別れる手前ってこと?」
「えーっと、微妙なところだけど喧嘩中ではある」
「そ。…あのさ、こういう時に言うのも何だけど、前からいいなーって思ってた、んだよね」
「…え、と、それは」
「返事、すぐじゃなくていいけど。考えてみて?」
「…ごめん、でもまだ別れてないから」
「まあ、そういうわな。でも、友達からって思って?これ 、連絡先」


手渡された小さなメモ用紙。準備よく出されたそれに、用意してこちらに来たんだと勘繰る。

どうしようかと持て余していた手が、刹那、いきなり掴まれる。筋肉質で、よく見覚えのある、少し懐かしい腕。見上げなくてもわかる、タイムリーなあの人だ。


「悪い、こいつ俺のだから」


目を合わせる事もなく、力強く掴まれた手。さっきまで話していた彼を振り返る余裕もなくずいずいと進んでいく。ぼ、木兎。呼びかけたところですぐ前をいく彼は止まらなかった。


「い、木兎!」
「…ごめん、」
「ど、どうし」
「悪かった。約束、守らなくて」


人気の無い空き教室の前で、やっと立ち止まった。掴まれた腕が離されてなお、そこに集まった熱は消えない。なんで、とか。なんであそこに来たのとか、どうしてここまで連れて来たの、とか。聞きたい事はおいおいあるが、元気が取り柄の彼が伏し目がちに眉を下げるものだから踏み込めなくなる。


「わたしも、…ごめん。馬鹿みたいに怒鳴った」
「…あん時すごいキレてたな」
「、うん。ごめん」


窓ガラスに寄りかかったままの木兎。未だに目は合っていなかった。お前もあんな顔するんだな、と口に出した彼は、その後ちらりとこちらをみた。目が、合う。一週間ぶりに、大きな瞳の中にわたしが映る。


「するよ。だって楽しみだったもん」
「…そ、だな」
「私、思った以上に木兎のことになると、余裕なくなる、みたい」


好きだよ。と先走って出た言葉はすんなりと、まっすぐ木兎を捉えたまま、彼の耳まで運んだ。ぴくり、と彼の眉が動く。そして彼の顔が赤く染まった。あーくそ、と木兎が頭を掻く。そして、意を決めたようにしてこちらを向いた。縮まる距離。次の瞬間、木兎の大きな手が頭に触れて、胸の部分に押しやられた。鼻腔いっぱいに木兎の香りがして、不意に目頭が熱くなる。


「俺も、」
「ん?」
「お前と喧嘩してから部活うまくいかなくて、赤葦に怒られた」
「知ってる」
「へ、」
「赤葦、わたしのところまできたもん。仲直りさっさとしてって」
「、まじかよ…」
「うん。まじ」


もっと距離を縮めたくて、鍛え上げられた身体に腕を回す。木兎に触れていたかった。一週間で、どのくらい女の子と話した?2人っきりになったりしてない?なんて先入観より今はずっとこうやって、木兎の筋肉質な身体やちょっと甘いかおりに混じるほんのりとする汗の匂いを独り占めしたいのだ。

それを知ってか知らずか、木兎は余った左手をわたしの腰に回して深く抱きしめてくれる。甘えたい、と思われているのだろう。でも違う。わたしは木兎が考えるより我侭で欲張りで意地っ張りだから。

逞しい首に腕をかける。キスして。全部払拭するみたいに、掻き消すみたいに、わたしを木兎でいっぱいにして。


「積極的ぃ、」
「…一週間ぶりだもん」


顔と顔が近づく。木兎の吐息が伝わる。にやりと口端を上げる木兎に胸がどきんと跳ね上がる。身体中に熱が帯びていくみたいに、血が木兎を見て熱く循っていた。






(ち、ちょ!あれ!!!!)
(うわ!木兎となまえじゃね?!)
(昼間っからお熱いなー)
(てか仲直りしたのね)
(俺のおかげです)
(赤葦…((ありがとう))


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