音色と世界と紫

1度、その音を聴いた気がした。暗くなった学校で、一つだけ明かりが灯っている教室。多分音楽室であろう。なんとなく、階段を上がってみる。練習はもう終わっていた。学校の中は、外よりも風通しが悪い分ムシムシとしていて、暑苦しかった。

「…なまえじゃん」

ドアの隙間からこっそり覗いてみる。そこには同じクラスメイトの姿があった。こんな時間まで残っていたのは彼女だったのか。隙間から冷房であろう冷気が流れてくる。入ることに特に躊躇もなく、ドアを開ける。

「なにしてんだー?」
「え、御幸?、びっくりした」
「外から聴こえたから、気になってよー」

やっぱり、入ってみると音楽室はひんやりしていた。練習していたグランドとも、少し滞在していた廊下ともまるで違う温度のせいかどうか、音楽室はいつもより澄んで、整然としている気がする。どうしたの?とこちらに問いかけてくるなまえはそこに佇む住人のようで、クラスにいる時とはなんだか違う印象を受ける。

「練習、おわったの?」
「おう。今日はクソ暑いから早めに切り上げた」
「そうなんだ。おつかれ」
「どーも」

話し出すと変わりない声のなまえに調子が狂う。やっぱりこいつは同じクラスのやつだ。なのに、どうして一瞬違うように感じてしまったのだろう。よく分からない感情だったためか、変な顔をしていたらしく、なんかいつもと違うと言われる。先にいつもと違うように感じさせたのは、そっちの方だというのに。

「さっき何弾いてたの?」
「え、ピアノ」
「馬鹿。それぐらい俺でもわかるわ」
「はは、だよね。でも御幸言ってわかる?」

尤もな事を言われ、言い返す言葉もない。まあ、と濁すとなまえはなんとなく笑っていた。汗だくの自分が妙にかっこ悪い。音楽室が清涼過ぎて、俺だけが場違いでしかない気がした。それでも、こっち来なよと何でもないようになまえが言うので、俺も何でもないように頷いてそちらに向かった。

「これ、弾いてたの」
「うげ、真っ黒じゃんか」
「そうかな?御幸がいつも教室で見てるやつと同じくらいじゃない」
「ん?スコアブックのこと」
「あ、多分それ!」
「えー全然似てないわ、」

ピアノの椅子の後ろ。何気なく近づいた距離は幾分と近くて、どきりとした。綺麗なうなじを覗かせて、なまえはスコアブックと楽譜を同じだと言う。どういうこと?と聞き正したところで、到底分かりそうもない説明をされるだろうが聞いてしまう。なんとなく、自分がここに居たいのだなということを勘づいてしまった。

「御幸、寮は大丈夫なの?」
「え?、あそこはうん。どうにかなる」
「あ、そう?」
「なんか、ここずっと居たいなあって思うわ」
「ええ、そう?」
「うん。好きかも」
「ふうん。…変わってるね、」
「なまえも、変わってるぞ」
「は?」
「クラスにいる時と、なんか違う」

ずっと眺めていた後ろ姿が、急になまえの顔に替わる。その距離はやっぱり近くて、少し怯んだ俺になまえは気づいたようにごめんと言った。それでも、あまり気にせずなまえは多分、と続けた。どこか甘酸っぱい雰囲気だったはずだが、対して彼女はどうでもなかったらしい。俺だけなのかと少し悔しいような恥ずかしような。

「御幸が野球してる姿と一緒だと思う」
「え?」
「かっこいいよ、キャッチャーしてる御幸」
「え、」
「つまりはというと、本気になれる世界にいる時とクラスとじゃ雲泥の差ということ」
「ああ…え?」
「じゃあ、迎え来たみたいだから私帰る!」

え、ちょっと。呼び止めたい事が多いが、なまえはさっさと片付けを始めて扉に向かっていた。扉の戸を開けて、くるりとこちらを向いた。スカートが一緒に靡いて、青春だなあと思う高2の6月。

「あ、御幸はいつもかっこいいよ?」

じゃあね。ばたん。バタバタバタ。スリッパの擦れる音が、いつもに増して鮮明に聞こえた。最後のにやりとした顔が、可愛すぎた。なんだそれ、ずるすぎやしないか。


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