「すごい…」

 入学式を終えて、今日も練習しているというバスケ部のちらりと覗き見ようと思い立った。そろりと覗いてみてそのレベルの高さに菜穂は感嘆の声を漏らした。思わず荒々しいがスムーズな動きに釘付けになっていると、いつの間にか隣に男の子が並んでいた。彼もすげぇな、と声に出していた。
 しばらく二人で練習風景を見ていると、こちらに気がついた先輩が苦笑しながらやって来た。

「気合入ってるのは分かるけど、一年生は明日からだ。かなりキツいだろうから早く帰ってコンディション整えとけよ。マネージャーも募集かけっから、また明日な」

 菜穂たちは顔をカァっと赤らめて脱兎の如くぎこちなく駆け出した。途中で遅れる菜穂の手を彼は取って更に速く走り出す。それに反抗したりどぎまぎする余裕も菜穂にはなかった。
 しばらくして彼が足を緩め、学校から少し行った所の道端で止まる。小四から始めたバスケのお陰で人よりかは体力のある菜穂だが、男子の全力疾走に付き合わされたのは予想外で思わずむせる。

「ワリィ!付き合わせちまったな」
「ううん、大丈夫」
「えっと、それじゃあ、また明日からよろしくな!」
「あ、でも…その…良いのかな?」
「何がだよ」

 この場から去ろうとしていた男の子は、訝しげに菜穂を見る。

「小学校の時ミニバスやってただけで、なんとなく帝光に入って、きっと女バスじゃ真剣すぎてやになっちゃうと思って、そんな軽い気持ちでマネージャーだなんて。今日の練習見たら思い知ったと言うか、身の程知らずだったなぁって…」
「別に良くねぇ?俺なんて今日監督に誘われたからとりあえず見に行ってみるかって程度だったし。んな細かいことまで言わなきゃわかんねぇって」

 それじゃまたなって男の子は行ってしまった。名前も知らない男の子は、何かスポーツをしていたであろう体つきをしていたし、背も高かった。だからスカウトされたのだろう。彼はきっとバスケのことをまだ好きになっていない。ただ、バスケをスゴイと思って興味を持っている。
 それだけでも良いのかな、と思いながらもなんだか元気づけられて菜穂は軽い足取りで歩き出した。

 翌日から仮入部が始まった。菜穂は先輩マネージャーに仕事を教えてもらいながら、ルールを教えられる必要がなかったのでスコアの書き方を教わっていた。
 仮入部で新入生のやる気を引き出すためか、行われているミニゲームで彼…虹村くんは早速活躍していた。つい先日まで小学生だったとは思えない程の高身長に、なんらかのスポーツで鍛えられた筋肉と持久力。視野も広い上に人付き合いが上手い。バスケ未経験者にしては文句なし、帝光中学に恥じないプレーヤーにだって今後の努力次第でなれるだろう。

「7番の子と知り合い?」
「いえ、そういうわけではないんですけど。未経験なのに凄いなと、思ったので」
「確かにね。監督がスカウトしただけあるわ」

 仮入部が終わって、菜穂はバスケ部に本入部した。現在は3軍のマネージャーとして日々扱かれている。虹村くんはしばらく3軍に居たが、夏に2軍昇格を決めた。始業式の日以来、これといって話すこともなかった。マンモス校であるし、廊下ですれ違うなんてことも。ただ一方的に菜穂が感謝して尊敬して応援して、少し気になっているだけだ。

「ただいまぁ」
「姉ちゃんおかえりー」
「あれ?まだお友だち居るの?」

 玄関には弟の悠のものでない小さな男物の靴がある。そして現在時刻はもうすぐ19時になる頃。小学生が外で遊んでいていい時間ではない。ぱたぱた軽い音が聞こえて、リビングの扉から不安そうな二対の目が見える。菜穂はバレないように、仕方ないなと言いたげにため息をこぼす。

「名前は?」
「功太」
「そっか、功太くんね。おうちの電話番号教えてくれる?悠は片付け!」

 功太くんの家に電話するが、出ない。功太くんは家の鍵を持っているようなので菜穂は悠の晩ごはん(作り置きしていたもの)を軽く準備して先に食べておくように言って、送る為に一緒に家を出た。功太くんのランドセルに点いているキーホルダーが、歩く度に揺れてぶつかって音を立てる。
 功太くんはさっきから慣れない人と一緒に歩くのが気まずいのか、これから怒られるのを気にしてるのか、下を向きっぱなしだ。菜穂は会話を振る。今日はどんなことして遊んでたの、いつも悠は学校でどうなのか、いつも悠と仲良くしてくれてありがとう。話しているうちに知らない人から、友達のお姉ちゃん認定をしてくれたようで、自分から色々話してくれるようになった。お兄ちゃんが居て、強くて、カッコいいらしい。まだ小さい妹はすぐ泣いて面倒くさいが、それでもやっぱりかわいいらしい。

「そっかー。そんなお兄ちゃんが居るんだね。羨ましいな。功太くんもお兄ちゃんみたいになれるように頑張ってね」
「うん!」

 菜穂の家から一度小学校の方へ行き、そこから小学校の向こう側まで行く。意外に遠かったので、これは悠に先にご飯を食べるように言ったのは正解だと思った。しばらく歩いて功太くんが「ここだよ」と指差すのはマンションで、敷地内でもなにがあるか分からないし、一緒にご両親に謝ったほうがいいと思って最後まで送っていく事にする。

「ただいまー!」

 おかえりは返ってこなかった。功太くんが不安そうな顔をして菜穂の手を握る。ご両親がそんなに怒っているのかと心配しているのだろう。その時ドアが開いた。未だ玄関に居た菜穂と功太くんは少しばかり驚いた様子を見せる。

「お兄ちゃん!」
「功太?え、マネージャー?」
「虹村くん!?え、功太くんのお兄さんって虹村くんなの?え?」

 虹村くんはまだ小さな女の子を抱っこしている。功太くんの言っていた妹だろうか。しばらく二人でぱちくりした後、菜穂は自己紹介と功太くんの事情を説明する。虹村くんは一応軽く功太くんを叱ったけれど、すぐに妹を下ろして二人で手を洗ってくるよう言った。

「香坂ワリィな。実はお袋今風邪ひいててさ、親父も今日は仕事で遅くなるらしいんだよな。それで俺が葵のお迎え行かなきゃなんなくって…。電話も出られなかったし、夜遅くに迷惑かけたな」
「ううん、気にしないで。お母さん大丈夫?みんなのご飯は?」
「適当に、ラーメンとか食わせるかな…?」
「…良かったら私作ろうか?」
「いや、流石にそこまで世話になれねぇって」
「良いから良いから!うちは共働きだから小さい頃から家事手伝ってたから料理は得意なの!それに悠には先に食べてるように言ってるし、大丈夫!」

 虹村くんは終始申し訳なさそうに眉尻を下げていたが、育ち盛りの子供が居るのにラーメンは食べさせられないし、彼の表情からして料理自体そんなにしないのだろう。ラーメンにも具をちゃんと入れるとは考えられなかった。菜穂は珍しく強気に出て、ローファーを先程功太くん
と葵ちゃんの入っていった洗面所に向かう。
 菜穂はキッチンに入って「失礼します」と断ってから冷蔵庫を開ける。じーっと中に何があるか見て、献立を考えていく。今日は時間もないし、出来ればお母さんにもおかゆかなにか作ってあげたい。コンロは二つだし…と考えて、菜穂は献立を決めた。

「葵もお手伝いするー!」
「じゃあ、この卵さんをまぜまぜして下さい!」
「はぁい!」
「俺も何かする!」
「じゃあ、功太くんは…テーブル拭いてくれる?」
「香坂、俺も」
「えーっと、虹村くんは…部活で疲れてるだろうし休んでて」
「いや何でだよ!そこはなんか言えって!」
「うそうそ!えっとね、レタス切ってくれる?」

 葵ちゃんがといてくれた卵をおかゆのなかに落として、火を止める。おかゆはこんなもんで良いだろう。もうひとつのコンロではお湯を沸かして、ブタの薄切りをゆでていく。テーブルを拭き終わった功太くんが出してくれた平皿に虹村くんの切ってくれたレタスを敷き詰めて、葵ちゃんが洗ってくれたトマトを飾る。少し寂しかったのでレタスにキュウリのスライスを混ぜて、その上にあら熱を取った豚肉を乗せる。ポン酢と胡麻ドレッシングを用意して、完成だ。

「はい!菜穂お姉ちゃん特製 超時短冷しゃぶの完成!みんなご飯どれくらいー?」
「本当に、何から何までありがとうな」
「気にしないでってば。私も人様の冷蔵庫勝手に漁ったし…。あ、そうだ。おかゆ、二食分くらいあるから、お母さんに食べさせてあげてね。私はもうお暇するから」
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