昔話をしよう。おれが地獄の底で、僅かな糧で飢えを凌いでいた頃の。あの頃のおれは痩せっぽっちで、どうしようもなく貪欲だった。そんなおれに、手を伸ばしてくれた人がいた。



 渓獄筺底ゲヘンナ。あそこは、世の中のあらゆる悪いものを集め、煮詰めたような場所だった。地獄なんて呼ばれていたのも頷ける。もっとも、ゲヘンナの外を知らなかった小さいおれは、ゲヘンナが地獄と呼ばれていたことを知らなかったのだけれど。
 おれは、いつも通りに市場からパンやら野菜やらを盗んで路地裏へ逃げ込んだ。この貧相な身では上等なものを抱えて逃げおおせるのは難しく、盗むのは、いつも硬いパンに痩せた野菜だ。だから、追う足音はしばらく身を隠していれば止んでいった。
 手に入れた食料を抱えて、ほっと一息つく。おれのように盗みで生き延びている奴の中には、家族にと食料を持って行く奴もいるけれど、生憎おれには家族はいない。物心ついた頃には一人だった気がするが、ゲヘンナでは特に珍しくもないことだ。孤児だとか、天涯孤独だとか、そういうやつは掃いて捨てられる程にいる。
 パンや野菜にかぶりつき、噛み砕いて飲み込んで、最後に川の水で喉を潤す。腹を壊すこともあったけれど、その頃にはもう慣れたものだった。いちいち腹を壊しているようじゃあ、命がいくつあっても足りない。
 その場で腹を満たしたら、古着や毛布を敷き詰めた、小さな寝床へ戻る。明日の食料調達の算段や、時々気まぐれに鍛錬なんてものをしてみて、疲れたら眠る。おれは明日も、いつもと何も変わらない一日を送るはずだった。少なくとも、おれは送るつもりでいた。



 その日は偶然、普段よりもいい食料が手に入ったせいで少し気が大きくなっていた。嘘だ。おれはかなり調子に乗っていた。だからこそ、普段は手を出そうとも思わないものに、手を出してしまったのだ。

 ゲヘンナには『林檎園』と呼ばれる場所がある。実のならない氷の樹のそばには、そこそこ住みやすいコロニーがあるという話だ。実際にコロニーを見たことはなかったが、林檎園に住む奴らは、林檎園の外に出る時は必ず揃いのマスクをしていた。良くも悪くも目立つその格好を追えば、塩を作って儲けていることには簡単にたどり着く。そして塩は、金になるのだ。
 林檎園で塩を作っていることまで知っていたが、今までは、どんな奴が張っているとも知れない場所に手を出すことを躊躇っていた。しかし今日のおれは(かなり)調子に乗っていて、どうにかなると踏んでいた。全く、調子に乗るとろくなことがないと、今でも思う。
 ――そして、林檎園の誰かが運ぶ荷を狙って、塩をこっそり頂こうとして、そうしたらこの様だ。おれは妙に大きな蜘蛛に吊られ、ガスマスクの誰かに見つめられている。

「うっわあ、よりによってエインちゃんと俺様がついてる荷を狙うか!度胸あるなテメェ!!」
「……えいんちゃんって誰だよ」
「やっぱ前言撤回。馬鹿だコイツ」

 吊られているせいで、じわじわと血が登っていく。ゴンゴンと頭の中で鈍い音が響く中、ともかく馬鹿だと言われたことは理解できた。

「なんで……」
「何でもなにも、お粗末すぎんだよ。エインちゃんと俺様が、クソガキに遅れをとる訳ねえっての!」

 おれはすばしっこさには自信があった。仮に塩の奪取に失敗しても、逃げ切るつもりでいたのだ。スラム街に入ってしまえば逃げ切れる。それまでの距離を抜けるくらい、簡単だと思っていたのに。スラム街に入る直前、おれは蜘蛛に先回りされ、そして今に至る。

「――パラダイスロスト」

 あっさり捕まった情けなさと、未だに飲み込めない状況への混乱に黙っていれば、ガスマスクのほうから声がした。女の声だ。コートを着込んだ姿からは性別の判断がつかなかったために、少なからず驚く。

「ご存知ありませんか。我々のギルドの存在を」
「……しらない」
「『林檎園』を拠点とする組織です。貴方が目をつけたガスマスク姿は、我々が同志であるという証」

 ぼんやりとした頭で返したおれに、ガスマスクの女が一歩近づいた。少し涼しいな、と場違いな感想がよぎる。

「林檎園は私の、ひいては我々の管轄です。塩の生産や取引もまた、我々が管理しています。そこに貴方は手をだした。間違いありませんね?」
「……、うん」

 ああ、終わりだな、と思った。まずいことをしてしまったのはわかったし、盗みを働いた奴が捕まれば、酷い目に合うのはよくわかっている。これまでだって、そういう奴は何人も見てきた。
 とうとう自分の番かと思えば、口が勝手に動く。

「――まだ、まだ、おれは何も盗んでない。盗めなかった。おねがい、見逃してくれよ。離してくれたら、なんだってやってやる。なんなら、あんたらが、やりたくないことだって」

「……貴方がこの先に何を見て、そう言っているのかは想像がつきます。これまで貴方の見てきた者と、我々が同等であると思われるのは不愉快です」
「みのがして、くれるの」
「いいえ。そうではありません」
「……」

 頭はもう回らない。ただ、ガスマスクの向こうから、女の声が聞こえるのをまった。



 ――結果を言えば、おれは助かった。落とされ、地面にぶつけてできたこぶ以外は全くの無傷だ。ついでに、住みやすそうな場所も手に入れた。『林檎園』に、連れていかれることになったのだ。
 労働力がなんとかという話だったが、きっと園で働かされるのだろう。面倒なことをさせられる前に頃合を見て逃げるかと、地面に転がったままで考える。

「なあクソガキ、名前は?」

蜘蛛のぎょろりと大きな赤い目が、八つ揃って向けられた。

「あお……アオ。青いのって、呼ばれてたから、アオでいい」

蜘蛛は笑った。実際、そんな表情をしていたのかはわからないが、笑ったように見えた。


ハロゲンランプ