真っ赤なトマトを手に取る。よく熟れて美味しそうだ。わたしは迷わずかごに入れた。
夜のスーパーマーケットの中は閑散としている。商品も昼間に売れてしまって少ないが、混まないので買い物は楽だ。
ジャケットのポケットから携帯を取り出して時計を確かめようとした時、店のBGMが蛍の光に変わった。わたしは俄に焦り始める。
今日は饅頭は残っているかな……と、思った時だった。数メートル先に、恵子先輩を見かけた。
恵子先輩はカートを押しながら、豆腐を手に取っている。
わたしは恵子先輩に声をかけようと歩き始めた。すると竹輪を持った酒田くんが棚の影から現れる。そして、その竹輪を恵子先輩のカートに入れ、先輩の代わりにカートを押し始めた。
わたしは足を止めた。動かなかった。二人並んで仲良く買い物する様は仲睦まじく、まるで新婚夫婦のようだ。けれど、会社ではそんな様子はみじんも無かった。
わたしがドキドキしていると、恵子先輩がわたしに気が付いた。大きく手を振っている先輩に、わたしは会釈する。
「あ、こ、こんばんは……」
気まずい。
わたしはどうしていいか分からずに、次の言葉につまった。けれど、少なくとも恵子先輩はそう思ってはいないらしい。いつも通り、明るく話かけてくれた。
「あー!みのりちゃんやーん!家この辺やったん?」
「は、はい、そうなんです。近所なのでよく来ます」
ちらりと酒田くんにも目をやると、彼は目を泳がせている。気まずいのはわたしだけでは無かった。
「お、お、お疲れ様……福岡さん、近所だったの? 知らなかった」
「うちからは歩いて来れるよ」
「本当に? そりゃ近そうだね」
酒田くんはそう言ってまた目を逸らした。何となくおろおろしていそうな感じがする。
わたしは先日のショッピングセンターで酒田くんとぶつかった事を思い出した。あれからしばらく、必要以上に関わらないようになっていた。
酒田くんのあからさまな動揺にどう反応するべきかと思っていると、恵子先輩が神妙な顔付きで切り出した。
「あんな、みのりちゃん。実はな」
「けい……。いや、花田先輩、それは」
恵子先輩が何か言いかけたのを、酒田くんが慌てて止めに入った。けれど、恵子先輩はそれをやんわり否定する。
「え? 何であかんの?みのりちゃん、うちは信用してるけど」
「……なら、……はい……」
短い相談の末、話がまとまった。酒田くんはきっと、尻に敷かれているんだなと勝手に考える。
きっと会社では二人の交際を秘密にしているのだろう。けれど、こうして見るとバレバレだ。先輩が何を言おうとしたかはもう分かってしまった。
「福岡さん。実は僕たち、付き合ってるんだ。でも、まだ他の人達には秘密にしてて欲しいんだ」
「堪忍な、みのりちゃん」
相変わらず目を逸らした酒田くんが照れたようにそう言うと、恵子先輩は自分の顔の前で手を合わせた。
いつの間にそうなったのだろう。全く分からなかった。
わたしも沖田さんの人間化や木島の事でてんやわんやしていて、それどころではなかった。そういえば最近酒田くんに誘われなくなった事に、今になってようやく気付いたくらいだ。
そんなわたしの心の声を読むかのように、恵子先輩はニコニコして話を続ける。
「つい最近やねん。ホヤホヤやで」
嬉しそうな恵子先輩に、酒田くんは照れて顔が真っ赤になっている。二人とも幸せそうで、わたしも思わず微笑んだ。
「熱々ですね」
「せやろ」
恵子先輩が酒田くんの腕にぎゅっとしがみつくと、彼はますますゆでダコのようになってしまった。わたしは声を出して笑った。
照れて居心地が悪そうな酒田くんは、そそくさと立ち去ろうとしている。恵子先輩の腕をそのままに、さっさとカートを押し初めた。
「じゃ、じゃあ、僕たちはこれで……」
「うん、またね。先輩、失礼します」
わたしが軽く会釈すると、恵子先輩は酒田くんにくっついたまま、笑顔で手を振って去って行った。
気持ちに応えられない事を心苦しく思っていたが、いつの間にか取り越し苦労に切り替わっていたらしい。わたしはぱっと霧が晴れたような気持ちになった。
「ねえねえ沖田さん」
「なんでしょう? 」
沖田さんが啜っていた味噌汁の椀を置いて、にこやかに微笑む。
「あのね、酒田くんっていたでしょ? 同僚の。彼女できてたよ」
「彼女……? 」
それは何だったかと言いたげな顔つきで、沖田さんはわたしを見ている。
「んー、恋仲? 」
「ああ、なるほど。わかりました」
沖田さんは合点がいったというような顔で相槌を打つ。
「その方は確か、あの時のしょっぴんぐナントカの時の……」
「そうそう。荷物ぶちまけちゃった時のね」
わたしは唐揚げを口に放り込んだ。沖田さんも箸で損切りしたキャベツを摘まんで食べている。
「でね、その相手が、いつもお世話になってる先輩だったの! 全然知らなかったから、びっくりしちゃって」
沖田さんはキャベツをポリポリ噛んで飲み込んだ。
「さっきスーパーで会ったの。幸せそうで、なんだか新婚さんみたいだったわ」
「それはよかった。これで安心ですね」
はて、とわたしはクエスチョンマークを飛ばした。断っても断っても誘われていたことを話した事は一度もない。確かに困ってはいたけれど、相談しようとは思わなかった。
「安心って、何が? 」
沖田さんは表情を変えずにまた味噌汁を飲んだ。
「もう悋気を起こさずに済みそうです」
「……悋気って、何? 」
知らない言葉だ。沖田さんに聞き返すと、彼は考える素振りを見せる。一秒ほど間を開けて、口を開いた。
「悋気とは、そうだなあ……嫉妬、かな」
「へえ……。ん? 」
普通は男女間の事で使うのだ、と沖田さんは付け足した。となると、彼は「もう嫉妬しなくて済むから安心だ」と言ったということになる。
「嫉妬してたの? 」
「ええ。そりゃあ、あの男、手を握っていたし……」
何でもない顔をして、沖田さんは唐揚げを噛んだ。
沖田さんが酒田くんに嫉妬していた。この事実を知ったわたしは、急に恥ずかしくなってきた。まともに沖田さんの顔を見られない。
何食わぬ顔で米を頬張る沖田さんがわたしの目を見る。視線につられて思わず目を合わせると、ますます恥ずかしさが込み上げてきた。
「真っ赤ですよ。顔」
わたしが何も言い返せずに唸っていると、沖田さんはさも楽しそうに笑った。