百年越しの文明開化
「あ゛ー。あ゛ー。あばばばば」
猫のムサシに……いや、新村さんだった。わたしは質問責めにされていた。維新はどうなったか、武士や幕府の行く末、この時代の事など、彼はいろいろな事を気にしていた。
彼が生きていた時代とのギャップを埋めるには、説明すべき事がたくさんある。この数日をかけて話しているが、特に現代の事は理解しきれていない様子だ。けれど彼は、時代の移り変わりを冷静に受け止めている。
150年程先の未来に居ることも、なんとなく覚悟はしていたらしい。部屋の中にある物は彼にとって不思議なものばかりで、わからないなりにも違う世界に居るのだと思ったそうだ。
テレビもエアコンも電灯も掃除機も、当然彼が生きていた時代にはなかったものだ。便利な世の中になったと驚き、しきりに感心している。中でも、彼の一番のお気に入りは扇風機らしい。声が変わるのか面白いしく、暇さえあればその目の前に陣取ってご機嫌で遊んでいた。
「ちひろ、聞いてくれ。こんなダミ声、俺のじゃないみたいだ」
彼は無邪気に笑った。かつては帯刀して幕末の京都にいて、刀を抜く機会もあったという。だが、今の彼の様子からはどうもピンと来ない。
その新村さんは、扇風機の前でうんと伸びをしている。爪先から尻尾の先まで伸ばしきり、何とも気持ち良さそうな表情だ。死ぬことも厭わずに剣を振るって生きた武士だそうだが、この姿から想像するのは少々難しい。
文明の利器に感心しきりで随分楽しんでいる新村さんだが、彼にはどうにも馴染めないこともある。例えばわたしの恰好だ。
わたしは髪をポニーテールにし、部屋着としてTシャツと短パンを着ている。真夏で暑いのだからこれに限るのだけれど、彼の目は非常に厳しい。
「以前から思っていたことだが……みのり、なんて格好をしている。腕も足も丸出しじゃないか」
「何で?このくらい普通よ」
「普通なもんか。商売女でもそんなに出していないぞ。髪型だって男のようだ」
新村さんは「目のやり場に困る」と言い、こちらをあまり見ないようにして話している。口調は怒っている風だが、その実あたふたしているようにも見えた。クスっと笑うとまた怒られるのだが。
彼曰わく、当時の女性は素足を晒すなどとんでもないことだったそうだ。脛を見せることすら恥だという。それを考えると、この格好は幕末男子には少々刺激が強いかもしれない。
「みんな、とは言わないけれど、現代はこんなものよ。なんなら外に出てみる? 」
「そりゃいいな、行こう。そういえば、もうずっと出ていない」
新村さんは嬉々として立ち上がった。早く行きたいと言わんばかりだ。
「決まりね。新村さん、外で喋っちゃダメよ」
「何故」
新村さんは首を傾げ、尻尾を横に振る。
「良くないわよ。あなたの時代にも喋る猫なんていなかったでしょう? 」
「いないな」
「もし、公(おおやけ)にでもなったら大騒ぎになるわ。剥製にされたって知らないわよ」
「はくせいとは、何だい」
剥製とは、死んだ動物を薬剤を使って、ありのままの姿で保管する方法のことだ。明治時代に考案されたので、彼が知らなくても無理はない。
説明すると、彼はさあっと青ざめて黙ってしまった。少し脅しすぎたようだ。
「……わからないようになら、少しくらい喋ってもいいわ。でも、気を付けてね」
「承知した。こんな所まで来てまで隠れるのは嫌だからな……」
新村さんは物憂げな顔をして、ぽつりと呟いた。
「え?何?聞こえなかったわ」
「いいや、なんでも」
彼は笑って小さな頭をフルフルと横に振った。
外に出て、近所をぶらぶら散歩することにした。
特にあてもなく歩き始めるが、新村さんには見るもの全てが驚きと新鮮さで溢れているらしい。丸い目をますます丸くしている。
コンクリートに覆われた道路。大きなマンション。細長い鉄塔。立ち並ぶ家々も、今時は日本家屋の方が珍しい。どこへ行っても車が走り、信号機が光っている。電車が近くを通った時は、彼は毛を逆立てて飛び退いた。
どれもこれも、彼が想像していた景色ではなかったのだろう。先程も自転車に迂闊に近付き、危うく轢かれそうになっていた。
「ふう、危ない所だった。あんな物がそこら中にうろうろしているとはな」
「自転車っていうの。歩くよりも早く、遠くまで行けて便利よ」
へえ、と彼は先ほど轢かれそうになった自転車の後ろ姿を見つめた。
「どの人も夷人(いじん)のような姿だ。それにどの人も髷(まげ)がない。高杉さんのようだなあ」
きょろきょろと回りを見渡している新村さんの前方に、女の人が通りかかった。新村さんの耳がぴくりと動き、その人を目で追っている。
「あの女子(おなご)もひどい格好だ。髪も結わずにみっともない」
その女性はミニスカートに素足でサンダルを履き、ストレートの長い髪を下ろしていた。素足もそうだが、髪を結っていないのは遊び女なのだそうだ。つまり、ふしだらの代表のような格好、ということらしい。
「そういう時代なのよ。もちろん着物も素敵だけど、普段着には不便だもの。感覚も変わっているのよ」
「……そうか」
新村さんは少し寂しそうに俯いて、押し黙ってしまった。時代を超えた事、彼の現状。維新は成立したが、彼の知る世の中とはすっかり変わっている。あらゆる事への実感と喪失感に、彼は耐えているのだろう。
わたしは新村さんを抱き上げ、背中を撫でた。何もしてあげられないけれど、それでも彼を励ましたいと思った。
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