(花緑青はなろくしょう)




(illustration:奈月彩人)

 一、

 夕闇が、すぐそこまで迫っていた。

 冷たい雨が地を叩き、濁った水たまりに波紋をつくる。

 雨と血で濡れた身体を引きずり、(鴉羽カラスバ)は山道を彷徨っていた。

 装束はところどころ破れ、素肌が覗いている。

 とある忍の里の次期里長として修行に出ていた鴉羽は、現在の里長である父の命を受け、隣国との戦に赴いていた。

 鴉≠ニ名につくように、黒く艶のある髪、強くしなやかな体躯――

 見目も良く、忍としての素質を充分に備えて生まれてきた。

 しかし、二十代も半ばと若い鴉羽は、敵に隙を与え、敗戦へとなだれ込まれてしまう。

 隣国との戦で深手の傷を負った鴉羽は、なにを思うでもなく、親友――(鴇丸トキマル)に想いを馳せていた。



 二、

 鴇丸は(孤児みなしご)だった。

 鴉羽の生まれた忍の里の入り口に、赤子の鴇丸が粗末な布にくるまれて置き去りにされていた。

 同じ時期に鴉羽が生まれ、二人は兄弟のように育ち、同じように忍術を学んだ。

 鴇丸は鴉羽に比べて小柄で、身のこなしが軽い。大きな瞳に白い肌、まるで鴇の羽のように(錫色すずいろ)に艶を放つ髪が印象的だ。

 高い身体能力と力強さの鴉羽。

 忍術の精巧さと身軽さの鴇丸。

 対照的に成長してゆく二人だったが、兄弟以上の絆の強さが、彼らの間にはあった。

 二人が十五歳になったあるとき、里長である鴉羽の父が、とあることをさせた。

 里の中心、里長の庭と呼ばれる広場に里の者をすべて集め、二人を囲み、その輪のなかで闘わせたのである。

「演習ではなく、実戦と思え。殺すつもりでかかれ」

 里長の言葉が重く響く。

 いつもとは違う里長のようすに、二人は気圧された。

 なにか違う――そう感じ取った。

 鴉羽と鴇丸はわけも判らずに、各々に武器を手にし、向き合う。

「私がやめ、と言うまで続けろ」

 二人は不安げに里長の顔を見、互いに見つめ合った。

 声や音をたてる者は誰もおらず、群衆の視線は、痛いほど二人の少年に注がれている。

「始めろ」

 里長は静かに呟いた。

 その声に反応したのか鴉羽は、足元をじゃり、とひとつ鳴らした。

 鴇丸は黙ったまま鴉羽を見つめ、動かずにいる。

 その場はしばらく静寂に包まれ、やがて――

 鴉羽から攻撃をした。

 里長の庭には、二人が地を蹴る音、刃が(くう)を切る音、衣が擦れる音、それだけが響いていた。

 里長をはじめ里の衆は、ただ黙し、睨むように二人の闘いを見守っている。

 それぞれの音に、互いの荒い息遣いが混じるようになっても、決着はつかない。

 攻めては守られ、その守りが攻撃へと転ずる。それがくり返される。

 半刻が経つかという頃、ようやく変化が表れはじめた。

 身のこなしの軽さでは里のなかでも随一だと言われていた鴇丸の動きが、明らかに遅くなってきたのだ。

 鴇丸は相手の動く音で、どこから攻撃してくるのかを聴き分け、さらに視覚で瞬時に確認し、反撃したり防いだりすることができた。

 それが、できなくなってきている。

 長時間の闘いによる息切れとは別に、時折その表情が苦痛で歪む。

 鴉羽からの攻撃を(かわ)しつつ、着実に攻撃をしていた鴇丸が、いまでは防戦一方になっている。

 苦しそうな鴇丸の顔を見て、鴉羽も表情を歪ませる。

 いままで兄弟以上の絆で育ってきた親友を、なぜ攻撃しなければならないのか、理解できなかった。

 これは、普段の演習とは違う――

 自分たちは、殺し合いをさせられている。

 鴉羽は、ほんの一瞬、隙をついて鴇丸の刀を弾き飛ばした。

 乾いた金属音。

 それと同時に鴉羽は鴇丸を押し倒し、馬乗りになる。

「――っ」

 鴇丸の白く細い頸筋に、冷たい刃を押しあてたとき、

「やめ。そこまで」

 里長が闘いの終わりを告げた。

 瞬間、いままで黙していた群衆は手に手を掲げ、歓声を轟かせた。

 それに驚き、鴉羽が固まっていると、

「退いて」

 鴇丸が静かに言った。

 群衆の騒ぎのなかでも、その声は鴉羽にしっかりと聴こえた。

 鴉羽は慌てて退き、起こすために鴇丸に手を差しだす。

「――ありがと」

 その手を握ってきた鴇丸の手は、とても冷たかった。



 三、

 この鴇丸との闘いが、次期里長を決めるためのものだと二人が知らされたのは、幾日か経ったあとだった。

 代々、里長一家の長男が跡を継ぐのが掟となっていたのだが、その世襲制度を快く思っていない者たちがいた。

 しかし、里長や掟には逆らえずにいて、機会を窺っていた。

 あるとき里長が、

「そろそろ鴉羽に次期里長の修行でも」

 と言いだし、ここぞとばかりに世襲反対派の幾人かが、

「忍としての能力なら、鴇丸も勝るに劣りません」

 意見を出した。

 里長派の人間はこれに異を唱えたが、当の里長はというと、それも一理ある、と頷いたのだった。

 鴉羽と鴇丸、どちらを次期里長とするか悩んだ。

 掟のこともあるが、孤児の鴇丸を拾い、育てると決めたときから、鴇丸も我が子同然だった。

 そこで里長が考えついたのが、二人を直接、闘わせること。

 これが、誰もが納得する方法だと思ったのだ。

「やはり鴉羽が次期里長に相応しい」

「鴇丸は己の立場を考え、身を引いたのだ」

 里の大人たちは口々にこんなことを言っている。

 鴉羽は、ひどく憤慨した。

 そんな息子の言葉は一切、聞き入れずに里長は厳しい修行に取りかかった。

 鴇丸はというと、ひとり静かに里を離れ、自分にも修行が必要だと山に籠ってしまう。

 十五年の歳月を共にした鴉羽にはなにも、行き先すら告げずのことだった。

 鴉羽は鴇丸の居場所を捜そうとしたが、去った者を追うな、という掟があるため、なにもできなかった。

 そして、隣国と戦になったときも、どこかで話を聞き、力になると戻ってきてくれるのではと信じて待っていたのだが、鴇丸は姿を現さなかった。

「あの闘いが原因で鴇丸に嫌われてしまった」

 鴉羽は、父を、里を、掟を憎み、それを修行への動力にした。



 四、

「次期里長、失格だな」

 傷を負い血が止まらない左腕を押さえ、暗闇と冷たい雨のなか、鴉羽は呟く。

 敗色が濃厚となり、前線から撤退した鴉羽たちだったが、逃げている最中、道中に潜んでいた刺客に深手を負わされてしまった。

 仲間とはぐれ、鴉羽は見知らぬ山道を歩いていたのだった。

 自分がどこを彷徨っているのか判らず、薄れゆく意識のなか、明かりが灯る古い小屋を発見した。

 最後の力をふりしぼり、木の戸を打ち鳴らそうとしたとき、鴉羽の意識はぶっつりと途切れてしまった。

 *****

 手脚に暖かさを感じ、鴉羽は目を覚ました。

 薄汚れた天井、揺れる囲炉裏の炎――

 傍らでは、青年が座ってなにか作業をしている。

「‥‥トキ?」

 なにか紺の布を繕っていた青年――鴇丸が顔をあげ、横たわる鴉羽を見た。

 白い肌と錫色に輝く髪、大きな瞳。

 大人の男に成長しつつも、あの頃の華奢な面影が残っている。

「すこしは暖まったかな」

 鴇丸は手を伸ばし、鴉羽の手に触れた。

「トキ‥‥」

「お前は馬鹿か」

「は」

「ここが僕の小屋だったから良いものの、もし敵の住処だったらどうするつもり? 殺されてたよ」

 持っていた針で鴇丸は、ちくりと友人の手の甲を刺した。

「痛っ」

「こんなことでは先が思いやられるな、次期里長さん」

「お前‥‥」

 驚きのあまり声もうまく出せない鴉羽をよそに、鴇丸は喋り続ける。

「鴉羽の装束、破れていたからいま縫ってるよ。お前は身体が大きいからな、これが直って乾くまでは、小さいかもしれないけれど僕の着物で我慢してくれる?」

 言われて鴉羽は、自分の身体を見やる。

 なるほど、見覚えのない着物に袖を通している。

 怪我をしていた左腕には包帯が巻かれていた。

「傷口が開くといけないからあまり動いては駄目だけれど、飯は食わんとな。粥をこしらえてあるから、冷めないうちに食べて」

 鴇丸は腰を浮かせて、鴉羽を起こしてやろうと手を差しだす。

 その手を見、

退いて

 あのときの闘いが、ふいに鴉羽の脳裏によぎる。

 しかし、粥の美味そうな香りで、それはすぐにかき消された。

 鴇丸の手は、相変わらず冷たかった。



 五、

「戸が激しく揺れたからなにかと思って見にいったら、鴉羽が(襤褸ぼろ)のようになって倒れているから驚いたよ」

 匙で粥をすくい、ふうふうと冷ましながら鴇丸が言う。

 息を吹きかけるたび、白い頬がわずかに膨らんで、幼い頃の面影が鮮明になる。

「襤褸って‥‥非道い言いようだな。それより、どうしてすぐに俺だって判ったんだ?」

「判るさ。鴉羽のことなら」

 ん、と匙を差しだす鴇丸。

 その真っ直ぐな瞳に、鴉羽は胸が痛む。

「‥‥この数年、俺はお前に嫌われていると思っていた」

「どうして?」

「いや――だって、黙って里を去るし、居場所も教えてくれないし、この戦へも協力してくれないし、もしトキが参戦してくれたなら、勝っていたかもしれない」

「どうだかね。別に鴉羽のことを嫌っていたわけじゃない。僕にもいろいろとあるのさ。それより粥、早く食ってくれよ」

 ずい、と唇に押しあてられる匙。

「トキ! 二十後半にもなる男に、その食わせ方はどうなんだ! 俺は怪我をしただけでな、別に‥‥」

「そう、怪我だよ。いま右腕しか使えないんだから、危なっかしいでしょ」

「だからってな!」

 匙を持つ鴇丸の手をつかみ、鴉羽は逃れようとする。

「暴れないで。なにをいまさら恥ずかしがってるの。鴉羽、気づいてないかもしれないけれど、左脚も折れてるんだよ。じっとしてなって」

 そう言われて、脚も手あてされていることに初めて気がつき、急に動けなくなった。

 もう逃げられないようにと、鴇丸は膝でにじり寄り、再度、匙を差しだしてくる。

「‥‥ん」

 鴉羽はおとなしく粥を頬張る。

「不味くても、ちゃんと食えよ」

「不味くなんか、ない」

 しばらく黙って粥を食べ、再び横になる。

「寝てな。よく休んだほうがいい」

 鴇丸は衣の繕いを再開し、優しく言った。

「トキは‥‥寝ないのか。もう夜半だぞ」

「もうすこししたら寝るさ」

「悪いな、トキ。本当に――」

 それだけ言うと、静かに目蓋を閉じた。

*****

 久しぶりに落ち着いて眠ることができた鴉羽は、(夢現ゆめうつつ)に幼い頃のことを思い出していた。

 十五歳の誕生日をまもなく迎えるかという頃、里長や大人たちが里長の屋敷に集まり、

「子どもは外に出ていなさい」

 と締め出されてしまったことがあった。

 いま思えば、それは次期里長を決めるための会議かなにかだったのだろう。

 鴉羽と鴇丸は、久々に修行から解放された。

 近くの野山を駆けまわったり、小川で水遊びなどをした。

 この時は、次代を担う若者ではなく、無邪気な少年の顔で笑っていられた。

 冷たく透き通る小川に膝まで入り、魚を捕まえる。

「トキは器用でいいな」

 鴉羽は、次々と魚を捕まえる鴇丸を見て言った。

「魚の動きとか習性を知っていれば、簡単だよ」

「俺は魚じゃないし、習性なんか判るかよ」

「相手を観察することは、忍者として必要なことだぞ」

「ふうん?」

「‥‥ただ捕まえようとするんじゃなくて、捕まえやすいように誘導するんだ」

 言っている間にも一匹捕まえては、水のなかに返す。

「なんで返しちゃうんだよ。どうせなら食べようぜ」

「僕は食べるために捕まえてるんじゃなくて、捕まえるのが楽しくてやってるの」

「どっちにしろ、魚からしてみれば地獄だろう」

「そうやって思えるなら、魚の習性にも想いを馳せてほしいな」

「別に俺は魚に想いを馳せてるわけじゃ‥‥」

「次は、もっと大きいのを狙う」

 鴇丸は水面を揺らさないよう、ゆっくりと魚を追う。

 その姿を見た鴉羽は、ふいに鴇丸の背後にまわり、

「わっ!」

 と、その華奢な背中を押した。

 声をあげる間も無く、鴇丸は小川へ倒れ込む。

 水面から上半身を出し、声を荒げる。

「鴉羽! なにするんだ!」

 水滴と相まって、鴇丸の錫色の髪は、きらきらと輝きを増す。

「魚じゃなくて俺と遊べよ、トキ」

「―――」

 一瞬の間の(のち)、鴉羽は激しく身体を水に打ちつけるように倒れた。

「仕返しだ!」

 水面下で、鴇丸が鴉羽の脚を取り、転ばせたのだ。

 ずぶ濡れの鴉羽を見て、鴇丸は腹を抱えて笑う。

「この‥‥!」

 鴉羽はすぐさま立ちあがり、

「やったな!」

 鴇丸に目がけて水を浴びせた。

 舞う水飛沫、こだまする二人の笑い声。

 笑い、はしゃぎ疲れた二人は、川べりの草原に大の字になって空を見あげた。

 鴉羽は横目でちらりと親友を見る。

 白い肌――首筋に張りつく錫色の髪。

 わずかに濡れる睫毛。

 水分を含み、しっとりと重たくなった着物がその身体の細さを際立たせている。

 いままでに感じたことのない気持ちが、体中をかけめぐり頭のてっぺんへ抜けてゆく。

 瞳に映った親友の姿は、触れたら壊れてしまう硝子のように思えた。

 それでも、触れてみたいとも思った。

 うまく言葉にできない想いを飲み込むように、拳を硬く握りしめる。

 視線を空に戻し、それ以上は考えないようにした。

 が、風のそよぐ音に混じって鴇丸の呼吸が聴こえてきそうで、黙っているのも苦しくなる。

 それでも、なにも言えずにぼうっと時の流れるに任せた。

「腹が減ったな」

「あぁ」

 どちらともなく、口を開いた。

 鴇丸は、ばっと身体を起こして、

「なにが食いたい?」

「そうだなぁ」

「里に戻ったら、なにかつくってあげるよ」

「本当か? じゃあ、握り飯がいいな」

 満面の笑みで言う鴉羽の顔を見て、鴇丸の頬も緩む。

「じゃあ、早く帰ろう」

 鴇丸は立ちあがると、鴉羽に手を差しだした。

「ああ」

 その手を取り、鴉羽も立ちあがった。

 草原と水の匂い。

 握った鴇丸の手の温度――

*****

 眠っている鴉羽の目には、涙が光っていた。

 鴇丸は、その雫を、白い指先でそっとすくった。



 六、

 幾日か経ったある夜、屋根を叩く雨音――

 何年かぶりに再会した鴇丸は、仲の良かった昔のように、いまも変わらず接してくれる。

 その優しさを信じ、鴉羽は、

「なぁ、トキ。一緒に里に帰らないか」

 ぽつりと訊ねてみた。

 布団に横になり、天井を見つめる。

 鴉羽の顔は、ひどくやつれ、血色も悪い。

 鴇丸は背を向けたまま、鴉羽の忍具の手入れをしている。

「トキ、聞いてるのか――」

「―――」

「おい」

 なかなか返事をしない鴇丸の背に、そっと手を伸ばす――が、鴉羽のその手は力なく床に落ちる。

 鴉羽は、ほとんど身体を動かすことができなくなっていた。

 怪我をした左腕に巻かれた包帯は、常に血が滲んでいる。

 高熱にうなされ、重く呼吸をくり返す夜をいくつも過ごした。

 折れた脚も、赤黒く腫れあがっている。

 だが、今夜はわりと落ち着き、普通に会話ができるまでになっていた。

「トキ」

「ん? どうした」

 鴇丸は、ようやく振り返った。

「俺はついに声まで出なくなったのかと、怖くなったじゃないか。ちゃんと返事をしてくれ」

「悪かったよ。雨で聞こえなかった」

 ――本当は聞こえていたんだろう

 鴉羽は言葉を飲み込み、再び天井を見やる。

「お前の粥、美味かったよ」

「そうか」

「あの時、お前がつくってくれた握り飯を思いだしたよ。また、つくってくれないか」

「そうだね。いつでもつくるよ、鴉羽のために」

「――里では、俺はもう死んだことになってるだろうな。戦にも敗れ、屍も見つからず‥‥逃げ帰ってどこかで野垂れ死んでると」

「不吉なことを言うのやめなよ」

「半分は事実だ。逃げ帰ってきたのは確かだからな」

「次期里長なんだろう? 生きて帰ればそれだけで充分さ」

 鴇丸は言う。

 それに対し鴉羽は、

「トキ、さっき聞こえていたろ? 一緒に里に帰らないか。俺の怪我が治ったら、一緒に――」

 さきほど飲み込んだばかりの言葉を口にしていた。

「僕は帰らないよ」

「あのときの、跡目争いのことを気にしてるのか」

「‥‥いや」

「俺は気になってるよ、あの日からずっと。トキに訊きたいこともある」

「?」

 鴉羽の顔を見る鴇丸。

「あの勝負、なぜお前は負けたんだ?」

「なぜ? 鴉羽のほうが強かったからだろう」

「いや、違うな」

「は?」

 ひゅう、と息を吐く鴉羽。

「あのとき、トキはずっと苦しそうな顔をしてた。疲れていただけとは思えない」

「‥‥‥」

「俺が里長の息子だからって気を遣ったのか?」

「そんなことで気なんか遣わないよ。僕は‥‥ただ、鴉羽のことを傷つけたくなかっただけだよ」

「―――」

「鴉羽を攻撃するのが、ひたすらに、つらかったんだ」

 鴉羽はなにか言いかけたが、突然、苦しみだした。

 血の滲む腕を押さえ、呻く。

「鴉羽!」

 鴉羽の高熱と倦怠感は、腕と脚の傷が化膿したのが原因だった。

「一緒に、帰ることは、無理そうだな‥‥」

「包帯、取り替えるから」

「まさか、俺を傷つけたくなくて、俺に負けた‥‥?」

 息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。

「でもな、俺は、傷ついたよ」

「薬、塗りなおすよ」

「トキが、俺に黙って、里を出たこと――それで俺は、傷ついた」

「ついでに脚のほうも取り替えて薬を塗るから」

「ガキの頃からずっと、一緒だった、のに。トキが里を出たと知って、なにかを失った気がした。今回の、戦についても、なにも、報せをくれなくて。それでもう一度、俺は失った気がした‥‥お前を」

鴇丸は手あてを進める。

「ここ何年も、あの頃の、ガキだった頃のことばかり、思いだしていた。里なんかに縛られない、ただ、なにもかもが楽しかった、あの頃のことを」

「‥‥勝手に傷ついて、勝手に想い出に浸って、それで? 怪我して苦しんでる鴉羽にこんなこと言いたくないけど‥‥自分だけが傷ついて自分だけがつらいと、思わないで」

 鴇丸の声がわずかに低くなった。

「トキ」

「僕だって鴉羽のことを考えて考えて、それでこんな山奥に潜んでるんだ」

「じゃあ、トキも俺のこと、想ってくれてたって、ことか‥‥?」

「そうだよ」

 真っ直ぐに鴉羽を見つめ、鴇丸は言った。

 瞬間、顔を真っ赤にして、

「だ、だから‥‥っ、さっさと怪我を治せ! 里には、鴉羽が必要だよ」

「俺には、トキが必要だ」

 鴇丸の表情が強張る。

「ガキの頃の、楽しかったあの頃の、トキの笑い声が耳に張りついて、消えないんだ。俺は、トキしか要らない」

「そんな、ことを言ったら‥‥里長が哀しむ。跡目のことは、あの方も断腸の思いだったはずだ」

「父のことは、どうでもいい!」

 痩せて骨張った手で、鴇丸の腕をつかんだ。

「父も、里も、掟も、そんなのもう知らない。どうでもいいんだ。トキが居ない里なんか守っても意味が無い。いつか、トキが戻ってきて、くれるんじゃないかと、信じて待っていたんだ、だから‥‥厳しい修行にも、耐えてこれた‥‥ぐっ」

 鴉羽は激しく咳き込む。

「でも‥‥でも、トキが里に戻らないというなら‥‥あんな里、もう知らない」

 やつれた頬、抜けた髪、血に染まる手脚――

 鴇丸は鴉羽のそれらを見、目を伏せる。

「じゃあ‥‥僕がいままで、命を懸けて守ってきたあの里は、どうなる?」

「‥‥?」

 俯き、声を殺し、鴇丸の涙は鴉羽の血の包帯に落ちる。

「鴉羽が里に居ると思ったから、僕だって頑張ってこれたのに」

「なにを、言って‥‥」

「里を襲おうとする敵を、僕が退治していたんだ。里を守るために、ここで暮らした。戦の話を聞いたとき、どうにかして力になりたかった。でも、僕がここを離れれば、隙をついて里を狙う輩が現れる。それを防ぎたくて、戦には赴かなかった」

「トキが、守ってくれてた‥‥?」

「僕にできることといえば、こんなことくらいしか無いんだよ。忍の基礎を教えてくれた(里長ちち)のため、苦しい修行を共に乗り越えてきた鴉羽のため、僕は、命を懸けてきたのに‥‥鴉羽が里を捨てるというのなら、いままで僕がやってきたことは、一体なんだったの」

「トキ、どうして、一緒に帰れない? そこまで里や俺を、想ってくれてたのなら、里を二人で守ることも、できる、だろ」

「所詮、僕は孤児だ。本来、里を守るべきは鴉羽なんだ。生まれの知れぬ僕のような者が、いまさらのこのこと帰れない。掟だって守らなければならないんだ」

「トキは孤児なんかじゃない。俺の大切な兄弟であり、仲間であり、好敵手であり‥‥大切な‥‥」

 鴉羽は、痛みで悲鳴をあげる身体を無理に起こした。

「ずっとトキに嫌われてると、思ってた。でも、再会して、トキは変わらず俺に接してくれた。だから、俺は」

「僕なんかのために、里を捨てないでよ」

「トキの居ない里なんか、捨てる」

「里を守らない鴉羽なんて知らない!」

 思わず鴇丸は、鴉羽の頬をはたいていた。

 反動で倒れる鴉羽。

 苦しそうに呻く鴉羽を目の前にし、鴇丸の表情は歪むが、あふれ出る想いは止まらず言葉となる。

「里のために一生懸命な鴉羽が好きだった。久々に会えた鴉羽が怪我をしていて、ひどく心が痛かったけど、目の前に居てくれるだけで、うれしかった――」

 鴉羽は肩を揺らし、苦しそうに吸って吐いてをくり返している。

「里には、帰らない」

 ひとつ言い残し、鴇丸は小屋の外へ出た。

 深い雨雲と夕暮れが混じり、雨空は(緑青色ろくしょういろ)に染まって見えた。



 七、

 重たい雨は、夜が明けるまで降り続けた。

 あの後、鴇丸は半刻ばかり外で頭を冷やし、全身をずぶ濡れにして小屋へ戻ってきた。

 錫色の髪が、雨粒できらきら光って眩しい。

 鴉羽は、倒れた姿のまま、事切れていた。

 大量の血を吐いた跡。

 その姿を観た鴇丸は、ぐったりと重く冷たくなった鴉羽を抱き起こし、ぎゅっと自らの胸にうずめて泣き明かした。

 戸の隙間から差し込む陽の光で目が覚める。

 もう二度と目を覚ますことのない鴉羽の、涙の跡が残るその頬に、静かに手を添えて鴇丸は言った。

「僕も同じだ。鴉羽が居ない里を守る意味なんて無いよ」

 瞑られた鴉羽の目元から、ひとすじ雫がこぼれた。


 了




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意図的パンダ