想起させる白


 横断歩道を渡り切るとすぐ、音が止んで、信号機の色が緑から赤に変わった。ため息が漏れる。
 その息が白いことに気がつき、ディール・カムラッドはその場に立ち止まりかけた。
 冬に入ったばかりの季節にもかかわらず、日中の気温が0度近くになったと、今朝のニュースで言っていたのを思い出す。昼になって気温がさらに下がったように感じられる。辛い寒さだった。考えるのを中断し、ディールは、また早足で道を進み始める。
 ディールは生まれも育ちも北アメリカの片田舎だ。親類を亡くし、それから紆余曲折を経て、数年前にこの薄暗い剣呑な街に辿り着いた。ついでにとある少女と出会うことにより、ディールはこの、崩れかけた世界の中でも特に治安が悪く、世界中から注視されている街、”サスピション”に住むことになった。それも、もう5年近くになる。
 赤子のように小さな雪が、小脇に抱えた茶封筒に落ちる。ディールはそれに目を向けたが、すぐに前を見た。長い睫毛に、ワインレッドの細い前髪がかかる。前髪の隙間から、絶え間なく降りてくる雪を眺める。その白さは、自分のよく知るあの少女とよく似ていて、しかし全く違う。
 世界の異変、崩壊の原因。
 あの少女のことを思い出すときはいつだって、“かつての世界”がくっついてくる。
 今では何事もなかったかのように前へと進んでいるものの、この世界はかつて、終わりを迎えようとしていた。それを、あのちっぽけな少女は、どうにかしようとしていた。
 正直なところ、ディールにとってはどうとでも構わないことだった。仮に、世界がめちゃくちゃにされようとしていることが本当だとして、自分に何ができるのだろう。あいつに何ができるのだろう。あんなチビに、何が?
 ディールは嘲った。思ったことを、そのまま少女にぶつけた。実際、彼の方が大人であったし、現実が見えていたのは彼の方だったのだ。それは確かなことだった。正論だった。それに対してあの少女は子供、非現実的、夢しか見ない。
「そうですね」
 ぽつり。少女はただそう言って、何も言い返さなかった。話を取り合うつもりがないのかと、ディールはさらに詰め寄って、少女の根暗さを吸い込んだような黒さを持ったインナーの胸ぐらを掴んだ。掴んで、引き寄せた。少女の瞳を覗きこんだ。

 星。

 もしかしたら見間違いだったかもしれない。その寝ぼけたような子供っぽい瞳の中に、途方もないほどひたむきな白い光が、煌々と宿っていたのだ。西洋ではありきたりな海色の虹彩に浮かぶ、粒のような光。引き寄せて覗き込むまで気づかなかった自分の目を、痛く疑問に思った。
 細められていたディールの目は、ギョッとして見開かれた。丸みを帯びた彼の目は、若干の愛嬌を孕んでいる。ふいに眼前の馬鹿が、胸ぐらを掴まれてつま先を浮かせながら口を開いた。
「あなたの意見は私の計画より真っ当です」
 ゆっくりと、そしてはっきりと、言った。
 言葉が続く。「あなたの言う通り、私が世界をどうこうしようとしても、万に1つも成功する可能性はないでしょう。しかし──」
 そこで一旦言葉を区切り、少女が目を閉じた。瞳の中に、何かを閉じ込めようとしているかのようだった。
 少女が目を開けた。逸らしがたい光が、反論しようと開きかけたディールの口を塞ぐ。
「私の計画にも、『考え』はあります。気合いや根性でどうこうしようってワケでもないです。目指す先に、たしかな勝算があるから、私はこんなことを喋っているんです」
 瞳の中の光に似つかわしい、真っ直ぐな声が、響く。
「希望を掴むためなら、なんだって捨ててみせます」

 いつの間にやら、ディールの頭は縦に振れていた。その星の光に頷いてしまっていた。理解しがたい超念力にでも操られたみたいに、すんなりと。
 しかし存外、あの少女は何もかもをやってのけた。結果的にこの世界は、現在に至るまで生き延びている。未来というのは本当に予測ができないんだと、ディールは改めて実感した。
 なんにせよ、今は事務所に行かなくては。今日までに書類を出せと、ひどく几帳面で神経質な上司に言いつけられている。
 輝かしい笑顔で威圧してくる上司の顔を思い出して、ディールは身震いした。両手がかじかんで、小脇に抱える重要書類入りの茶封筒がずしりと重く、気を抜くと滑り落ちそうになる。それを抱えなおした。
 丁度そのときだった。
 大通りから逸れ、細く入り組んだ迷路のような路地を抜けた先に、見覚えのある錆びれたビルが現れた。周囲を見回すまでもない。
 ビルの正面玄関を通り過ぎたあたりから、街の一角を占めるビルが視界に入っていた。今、ディールがいる場所から見てすぐ先の右側に、10階建てのビルが聳え、最上階の一番端のカーテンだけが開かれていた。あれに違いない。
……今日の昼までには、先週のP区でのバイク事故の報告書、あと先々週サボった分の始末書を持ってこい。いいな?
 電話で召喚の言伝を要求する男、バルド・ケインズの声には、多少の怒りと焦りが含まれていた。
 朝の9時5分。言い付けられていたデッドラインは約3時間後。届けに行くにはちょうどいい時間だ。
 しかし、ディールは、不動産屋と武器屋の間で立ち止まったまま、歩き出そうとしなかった。白線を踏み、路地の奥を覗くと、そこはひっそりと静まり返っている。どうしてか奥の暗闇が気になって仕方なかった。



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