象牙の鈍足

 赤司が彼女に振られたらしい。
 彼が直接口にした訳では無かったが、紗雪は何となく察していた。共に食事をするとき、彼女の話題を出さなくなった。少しだけ、言葉の節々に寂しそうな色を滲ませるようになった。どうやら赤司と彼女は余り大っぴらな付き合いをしていなかったようで、クラスの噂になるということもなく、緩やかに日常は過ぎていく。バスケ部の面々は、余り事情を知らない紗雪から見ても、何だか息苦しそうな面持ちを浮かべることが多くなった。暗い水底に沈んでいるようだ、と思う。関わりは無くても、特にレギュラー陣は目立つので顔くらいは知っている。モデルと有名な黄瀬涼太なんかは、バスケ部に入る前から知っていた。そんな彼らに反比例するように、赤司は日に日に、水を得た魚のように生き生きとしていく。仄暗い魅力を纏って、薄暗い影の中でひっそりと蠱惑的な笑みを浮かべている。今まで知っていた赤司からは考えられないような笑い方もするようになった。でも、決定的な何かが違ってしまったようには見えなかった。どちらかと言うと、今まで覆い隠していたメッキがべりべりと剥がれてきたという表現が近いと思う。

 皮肉なことに、というか、何と言うか。赤司が別れてから、紗雪は赤司の彼女の顔を見た。可愛らしい、純朴そうな少女だった。一見した限り、特別何かが優れているというようには見えない。勿論、見目は愛らしかったが、モデルのような外見という訳では無い。スタイルも、同じ男子バスケ部マネージャーである桃井さつきの方が良いと思う。でも、いい子そうだった。
「……」
「折原さん、どうかしたか?」
「嗚呼、うん……何でもないよ」
 赤司と共に一階の廊下を歩いている時だった。彼女はちょうど中庭で誰かと話しているようだったが、ちょうど木に隠れてその相手が誰かは見えない。視線の動いた紗雪を目敏く察知して、隣の赤司が不思議そうに小首を傾げる。けれど直ぐ、中庭の彼女に気付いて少しだけ左右異色の瞳を細めた。
「……行こう」
 赤司が紗雪の手を引く。その反応で、紗雪は赤司の彼女が誰であったのか悟った。
「赤司君って、けっこう王道趣味だったんだね」
 手を引かれながら、紗雪は努めて明るい声で、茶化すように笑った。赤司は何も答えない。紗雪は中庭を後にする前に、一度だけ振り向いた。物音に気付いたのか、はたまた偶然か。彼女はこちらを見ていた。赤司に手を引かれる、紗雪を見ていた。泣き腫らしたような瞳が痛々しい、けれど、決して揺らがない意思の強さを感じる。なるほどあの赤司が惚れる訳だ、と奇妙に納得した。
 中庭から離れてしばらくして、ようやく赤司は掴んでいた手を解放し浅い吐息を吐き出す。紗雪は黙って赤司の隣へと戻り、嗚呼好きだなぁ、と思った。随分と遅い自覚だと思う。でも、何故かこの瞬間、確かに紗雪は赤司への恋情を自覚した。
「早く食堂行こ、また席無くなっちゃう」
「……そうだな」
 何事も無かったようにそう言う紗雪に、赤司はいつも通りの声音で笑った。掴まれていた手首がまだ熱い。


 三年生の秋、赤司は京都にある洛山高校へと進学を決めた。全中三連覇という偉業を成し遂げたことで、破格の待遇で推薦を来たのだと、中庭でパンを齧りながら赤司が言った。
「え、凄いね、何が付いてきたの?」
「入部して直ぐ、部長を任せて貰えることになったんだ」
「え、何それ凄い。一年で部長とか史上初じゃない?」
「嗚呼、それに、洛山と言えば"開闢の帝王"とも呼ばれる強豪校だ。現在、五年連続三大タイトルを獲得しているらしい」
「二つ名。ちょっとそれかっこよすぎない?赤司君も何か無いの、二つ名。キセキの世代以外にさ」
「……僕自身、という訳では無いが、僕は眼が良くてね。誰が言い出したのか、エンペラーアイだなんて呼称はある」
「凄いのオンパレード……!」
「ついでに表記は天帝の眼と書くらしい」
「それ何てラノベ?」
「ラノベ……?」
 不思議そうに首を傾げた赤司に、ラノベとはライトノベルの略称であること、ライトノベルとは通常の小説よりもかなりライトで手軽な、漫画の小説版のようなものであることを教えておいた。よく分かっていないらしい彼に、多分純文学を好む人間が読んだらカルチャーショックを受けるよとだけ教えて、紗雪はパックジュースを啜った。近い将来、意味すら分かっていなかった赤司が絶対読まないだろうと思っていたライトノベルを読み込んだ挙句変わり者の先輩とヒロイン談義をするようになるなんて今は知らない。少なくとも、今の赤司は曖昧に頷くだけで、同じようにペットボトルの紅茶に口を付けるだけだった。
「でも、京都かぁ……」
 遠くなるね、と言った言葉に僅かに滲んだ寂寥を拾い上げたのか、赤司は「お前は東京か」と返した。うん、と答えて、紗雪は頭の中で、最近読み込んだパンフレットの記憶を捲った。
「一応、霧崎第一か、丞成か、秀徳か……その辺りかなぁ」
「そういえば、折原さんも成績は良かったな」
「悪くは無いよ、一応上位三十位以内はキープしてる」
「それなら、余り問題も無さそうだね」
 こうやってお昼に隣り合うのも、もう後半年だった。ふと視線を逸らして見れば、色づいた葉が時折はらはらと散っていく。寂しくなぁ、と、紗雪は呟いた。そうだね、と赤司は返して、それきり二人は黙り込んだままだった。


 赤司の彼女は東京にある誠凛高校へ進学したらしい。積極的に探った訳では無かったが、風の噂でそんなことを聞いた。結局赤司とは普段通りに卒業式で別れてしまったし、ロマンティックに最後の告白をした訳でも無かった。ただ、連絡先は知っていたので、やっぱり中学時代の会話と同じくぽつぽつと会話が続いた。彼は今、京都の別邸にいるらしい。
「こっちは湯豆腐が美味しいよ」
「桜そばって美味しいね」
「桜の塩漬けが食べたい」
「桜プリンが食べたい」
「プリンといえば近所に美味しいプリンがあって、こっそり買い食いしたらばれないだろうか」
「買い食いなら肉まんがオススメ」
「肉まんは冬の食べ物だと思っているから」
 だらだらと続く会話は実に清々しく中身が無い。ついでに、若干言葉のドッジボールになっている。でも、紗雪は、こんな空気が嫌いでは無かった。眠い、の一言を最後に返事が無くなったことから多分寝落ちしたと判断して、紗雪も携帯を放り出しベッドに寝転がる。襲い来る睡魔に抗わず、紗雪は意識を手放した。


 ある日、赤司が夢に出て来た。今では見慣れた赤と金の瞳では無くて、左右揃った赤い瞳をしていた。霞がかったような霧の中で何か言っていたが、上手く聞き取れなかった。
「……なぁに、赤司君。聞こえないよ」
 口に出した筈の声は、掠れて上手く言葉にならなかった。赤司は少しだけ笑うと、瞬きのうちに、今度は赤と金になる。彼は何だか下手糞に笑って、そのまま姿を消してしまった。

「……変な夢」
 目覚ましの音で覚醒した後も、何だか奇妙な心地が残って据わりが悪かった。何となく、携帯を持ち上げて昨夜に来ていた赤司のメッセージを見返してみる。特に、可笑しなところはない。明日は決勝だから早く寝る、という旨の言葉と共に、いつもより早く返事は途切れていたが、翌日が決勝なら仕方ないだろう。彼は今、ウィンターカップという大会に出ているらしい。


 あの日の夢は、もしかしたらこれの予兆だったのかもしれない、何てことを思うほど、唐突に紗雪は気付いてしまった。確か、くだらない雑談の途中だったと思う。
「うん、俺も好きだよ、もつ鍋」
 あれ、と思った。赤司から打ち込まれた言葉を前に、紗雪をはじっと画面を睨み付ける。いつも通りの返事なのに、何かがおかしい。でも、しばらくして、唐突に悟った。赤司の一人称が、僕から俺に戻っている。つまり、中学時代に入れ替わっていた人格が再び元に戻ったのだろう。それを悟った時、何となく、紗雪は寂しかった。そうか、もう、あの赤司には会えないのか。どちらの赤司も赤司には変わりないのに、どうしてこんなことを思うのだろう。


 二年生になってしばらくして、今度は赤司から「キセキの世代達で再び結成し、アメリカ人選手と戦うことになった」という連絡が来た。凄い凄いと思っていたが、ついに国際的な舞台に立つ様になるとはさすがは赤司というべきだろうか。紗雪は余りバスケに興味が無かったので見に行かなかったが、後日無事勝利を収めたという報告を貰った。今度会ったら何か奢ってあげる、と送信すると、じゃあマカロンが食べたい、と返ってきたので少しだけ笑ってしまった。赤司は冬休みに東京に帰って来るらしい。雑談の中、偶々二人の休日が重なると発覚したお蔭で、トントン拍子に話が進み、あれよあれよという間に二年振りの再会が決まってしまった。
「……」
 どうしよう。別に、会いたくないとか、そういう訳では無い。でも、どんな顔をしていいのか分からなかった。今の彼は、多分最初に出会った時の赤司だろう。普通に接したらいいのだと、分かってはいるのだけれど。

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