怪異


 どこまで行っても終わりが見えない。ひたすら全力で走り続けた所為か最早限界が近づいて、脇腹が痛くて痛くて堪らない。そればかりか、呼吸をする胸が締め付けられるようで、酸素が足りずに頭がくらくらとする。それでも、背後の音は止まない。走り続けるしか選択肢は無いのに、もう足が縺れてしまいそうだった。だというのに、何故か目の前のリドルは息さえ乱れていない。可笑しい、と掠れていく思考回路の中で、シイナは辛うじて思考した。
 彼は、魔法の才能こそずば抜けて優れているけれども、体力は人並みだった筈だ。男女の差こそあれ、こんな状況で息すら上がっていないというのは、どう見ても異常だった。

「っ……リ、ドル……お、前……」


 弱弱しい声音でシイナがリドルを呼んだ、その瞬間。ふらついていた足を何かに思い切り掴まれて、がくんと身体が崩れる。
「え……?」
 見なければ、いいのに。視線を下に落として、そしてシイナは絶句した。


 黒ずんだ着物を纏った男が、シイナの脚を掴んでいる。本来ならば目があるはずの場所は暗く虚ろな窪みになっていて、生気の無い土気色の顔には鼻が無く、口は半開きで舌が無い。開いた口は何かを訴えるように動かされているが、舌が無いために言葉にならず、呻き声のような音が漏れ出しているだけだ。
「あ……、」
 ゴーストとも死体ともまた違う、明確に"生きていない"者の存在に、思わず腰を抜かしてその場にへたり込む。ゆら、と、近くの蝋燭が風もないのに揺らいで、廊下に伸びる影を不自然に伸びさせた。
 すると今まで黙っていたリドルが未だ繋がれたままのシイナの手をきゅっと握り締めて、追いかけるように膝を折ってしゃがみ込む。その動きにシイナははっと彼の存在を思い出して振り返った。

「――――さぁ、帰ろう"花嫁"」
「……え?」

 でもその瞬間、リドルの瞳が赤に変わる。彼らしくない柔らかな微笑みを浮かべて、握り締めたシイナの手を強く掴む。その力は表情に反して余りに強く、シイナは痛みに表情を歪めた。
「嗚呼いい子だ、でもその手は離して。これは僕のだからね、穢れた君達が触れるべき存在じゃあない」
 リドルがそう言って片手を揺らすと、シイナの脚を掴んでいた男が大人しく両腕を離して、ずるずると背後の闇へと消えてゆく。それは、彼があの異様な男の上位に位置しているのだと知らしめるには十分過ぎる状況だった。嗚呼、そういえばあの時も、リドルだと思っていた人間が彼では無かったんだっけ――――。
「リ、ドル……じゃない、のか……」
「いいや、僕は彼だよ」
「っ、彼、とか客観的に言ってる時点であいつじゃないだろ」
「そうかな?でも、僕と彼は同じ存在だ」
「意味が分からない、お前、何なんだよ……」
「だから、トム・リドルだよ」
「ふざけるな……っ!いいから離せ!僕らをここから出せよ!!」
「それは出来ない相談かな、君には、僕を孕んでもらわないと」

 正気のようでいて、全く話の通じない男を相手に必死に腕を振りほどこうともがくも、彼は涼しい顔でシイナを押さえつけている。僕が彼、だの、自分はリドルだの、自分を孕めだの、意味の分からない言葉を捲し立てる男の顔は、それでもリドルで、気味の悪さが倍増している。何かに憑かれたのか、とシイナはどこか冷静にそう考えた。それならばこの意味の分からない言葉も少しは理解できる。
 憑かれているならば、僕は彼という言葉も肉体的には同じなのだから意味が通るし、僕はリドルと言っても間違ってはいない。ただ、それでも孕めという言葉は意味が分からなかった。


「っ、……お前を孕め、って、一体どういう意味なんだ、お前はここにいるじゃないか」
「言ったら孕んでくれる?」
「この……っ、…お断りだな、お前みたいな得体の知れないもの、誰が孕むか!」
 苛立ったように声を荒げたシイナを見て、リドルの姿をした何かがうっそうと笑う。けれど次の瞬間、彼は瞳を見開いて唐突な頭痛に苦しむように頭を押さえた。
「っ……っく、ァ、」
 ぎゅっときつく瞳が閉じられ、苦しげで、そしてか細い声がその整った唇から漏れる。よく見ると、その唇は常より大分血の気が失せているようだった。はくはくと酸素を求める魚のように唇を瞬いて、そして次に瞳が開いたときには、彼の瞳は黒に戻っていた。けれど、表情は未だ苦しげに歪み、呼吸は浅く早い。
「はっ、っ、……う、ぁ……っ、シイナ……」
 リドルの声が、掠れてシイナを呼ぶ。本物なのか、それとも偽物の何かなのか分からなくて立ち竦むシイナにリドルが手を伸ばして、そして。

「……僕から、逃げ、ろ」


 強い力で、欄干から突き落とした。


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