境界


 走って、走って、呼吸が苦しくなって、脇腹が痛くて、胸が締め付けられるような激痛が走っても、それでもシイナは走り続けた。
「くっそ……っ、どこだよ、池……!」
 あの時鏡のリドルが弾いた場所、あれは本殿に辿り着く前の回廊だった。外の様子は暗くてよく見えなかったけれど、水音がしたから多分池の傍だろう。確かに、現実の神社にも回廊の下には池がある。少し広い池だが、さほど深くはないから底から鏡を掬うのは難しくないだろう。加えて欄干を頼りに走っているから、池に辿り着いたらすぐに分かる筈だ。暗い所為で、見つかったとしても池の中に思い切り飛び込む羽目になるだろうが、そんなことには構ってられない。それだけの代償で見つかるなら、軽いものだった。そう思ってひたすら走り回っているのに、一向に池は見つかる気配がない。体力も限界に近づいて来ているし、背後から追いかける鈴の音は徐々に近づいて来ている。

「っ、……、」

 万事休す、か。
 これ以上スピードは出せない、ならば、捕まるのも時間の問題だろう。

「っち、っくしょお……っ!!」


 諦められない。
 諦められる、訳が無い。

 だって、ここで自分が諦めたら、リドルはどうなる?憑かれて意識を持っていかれた儘のリドルは、身体を奪われて、意識を喰われて、それで、どうなる?あいつの言葉通り、シイナの身体が"彼"を孕んで、産んだら。あいつは、どうなる?
「諦めて、堪るか……!」
 あいつは、いずれ世界を獲る男だ。マグルを排して、もう二度と純血の魔法使いが迫害されることのない世界をきっと作ってくれる。稀有な才能を持った、唯一無二の魔法使いだ。たった一人の、スリザリンの継承者だ。


 体力が完全に尽きてしまう前に、シイナは肩を揺らしながらその場に立ち止まる。背後の鈴の音はどんどんと大きくなり、ついには足音がこちらへと駆け付けて、黒くて顔の見えない影がシイナを取り囲んだ。
「っ、はぁ……は、っふ、……はぁ、」
 深呼吸をしながら、乱れた呼吸を整える。辺りを囲む人影を瞳を細めて見据えながら、シイナは走って乱れていた自らの白無垢へと手を掛けた。まだ曖昧な、けれど、辿り着いた仮説。脱出出来るかもしれないというなら、これに、賭けたい。


「……僕らがここに取り込まれたのは黄昏時、逢魔が時は、魔に逢う時間」


 言葉を零しながら、一番上の打掛を脱ぎ捨てる。ぱさり、と音を立てて落ちた着物は闇の中で淡く輝いている。
「走りながら、ずっと考えてたんだ。黄昏時が、逢魔が時なんて呼ばれるのは、昼と夜の境が曖昧だからだ――――世界の境目が混ざり合って、だから、昼の生き物が時折夜に迷い込む、僕らのように。そして勿論、逆もまた然りだ。夜の生き物が、昼の世界に紛れ込むこともある、これがいわゆる現世の怪奇現象」

 一枚、二枚。ゆっくりゆっくり、シイナは自らの着物を脱ぎ捨て、地面に投げていく。

「……此処は、完全な幽世。昼と夜に分けるなら、完全なる夜の世界。あちらに戻るなら、僕らはまた曖昧な境界線を潜らなきゃならない。でも、二重に取り込まれてるから、朝日を待って朝焼け時に……夜明けを利用して帰ることは出来ない」


 しゅるり、と、衣擦れの音が響いて、最早何枚目かもわからない着物が捨てられる。もう、シイナが身に纏うのは一番下の襦袢だけだ。周囲の影たちはシイナの意図が汲み取れ切れないのか、様子を伺うようにじっとその動作を眺めている。
「だから、夜明けの前に一度潜らなきゃいけないんだ、境界線を――――曖昧な、その境目を」
 そう言って、シイナは今し方脱ぎ捨てた着物を一枚拾い上げる。それは、女性が着る白無垢という着物に似つかわしくなく、白色をしているものの男性用の形態を取っている。同時に帯も拾い上げて、大きな音を立てて拾った着物に腕を通した。


「曖昧になれば通れる……池のある、あの空間に、辿り着ける」
 探しても探しても、池に辿り着かなかった理由。それは、きっと、此処が完全な幽世だからだ。池のあったあの回廊は、こちら側に迷い込む前の、本殿であの暗い空間に飛び込んでしまう前の、不完全な幽世にあった。
 乱雑に帯を締めて、シイナは欄干を掴み回廊の上へと思い切り跳ね上がる。一拍遅れて人影達がその背を追ったが、無数に伸ばされる青白い腕が背中を捉える前に、シイナは正面にある暗闇へ――――回廊の反対側へと、勢いよく飛び出した。


 曖昧になればいい。元々、シイナは女性でありながら男性を装う中途半端な存在だ。半端だから、境界線を越えやすい。同じ曖昧な存在だから、境目を作りやすい。女性のシイナが男性の着物を身に纏うことで、さらに性差は曖昧になるだろう。これで、きっと。帰れる。


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