帰還


 ばしゃん、と、大きな水音が響いて、シイナの身体が水中に投げ出された。突然の衝撃に、思わず思い切り目を見開く。衝撃でげほりと酸素が口から吐き出され、反射的に水を思い切り呑み込む。
「っ――――!!」


 苦しい、苦しい、苦しい!!


「ぐ、ぅ……っげほ、!」

 肺の中に勢いよく水が流れ込み、一気に身体が石のように重たくなる。自分のものなのに、指先さえも満足に動かせなくて、心臓が悲鳴を上げるように一際大きく脈動した。身体が無機物みたいに沈んでいく。弛緩した身体が水の中を揺蕩って、そのままゆっくり下へと落ちていった。
「……う、ぁ…」
 ふわり、と浮かび上がった片手を遥か遠い水面へと伸ばされる。暗い、真っ暗だ。あれが水面なのかな。でも、下に沈んでいるんだから、あっちが上なんだろうな。右も左も上も下も何も見えない。暗い世界の中、落ちた闇の中で、何かが指先へと触れる。



 その瞬間、強い力でシイナは水面へと引き上げられた。
「っ、……!?…っう、ぇ……っぐ、げほっ、!!」
 間髪入れず背中を思い切り叩かれて、肺から逆流するように呑み込んでいた水を思い切り吐き出す。
「っ何してるんだ……!!おい、しっかりしろっ!!」
 聞き慣れた、けれど聞き慣れない心底焦ったような声が頭上から聞こえて、シイナは茫然としながらのろのろと視線を上げた。全身びしょ濡れの所為か、溺れていた所為か、とにかく身体が重い。虚ろな瞳の先には、瞳の赤いリドルがいる。リドルが絶対にしないような表情で、必死にシイナを気遣っている。嗚呼、鏡なんだな、とぼんやりと思った。

 嗚呼、なんだ。訳のわかんない、怖い奴だと思ってたけど、案外まともなところもあるじゃないか。っていうか本物よりよっぽどまともじゃないか。真剣に心配しているリドルの姿をした鏡が何だか可笑しくて、思わずシイナは力なさげに吐息だけで笑った。
「このっ、馬鹿……!笑ってる場合じゃない、死ぬとこだったんだぞ!!」
「……うん、……でも、お前、が……、助け、て、くれた」
「っそうじゃ、ない……!」
「なぁ……鏡、」
 ゆらりと、シイナは脱力した片手を鏡へと伸ばす。
「……何、苦しい?息、出来る?」
「うん……、へい、き……ねぇ、鏡、僕、お前のこと……」



「お前のこと、そんなに嫌いじゃ、無かったよ」

 伸ばした片手で、鏡の頬を固定して。そして、彼の顔に、もう片手に握っていた鏡を突き付けた。
「っ、……!?」
 未だ震える手のひらで、必死に彼の襟を掴む。鏡が身に纏っていた白無垢が少し崩れて、人形みたいに真っ白い彼の肌が露わになる。鏡の身体を池に突き落とすように思い切り体重を掛けて沈み込ませ、そして喉が掠れる程に腹から声を絞り出す。

「リドル、目を醒ませ……っ!!」


「っ、……、ぅ、あ…!」
 びくり、と彼の肩が大きく揺れたのを確かめて、シイナは持っていた鏡の鏡面を池に写す。揺蕩う水面が鏡面を映し、互いを映し合って暗闇となるはずの水面に、朝焼けを待つ神社の姿が見えた。
「リドル……!!」
 名前を叫ばれて、ふら、と、リドルの身体が傾く。全力疾走をしたように息が荒く、立っていられないのか前方に崩れ落ちて地面へと手を付いていたが、薄っすらと開いた彼の瞳は元の黒色をしていた。シイナは本物に主導権が返ったと確信して、まだ意識のしっかりとしていないリドルの腕を掴み水面に写された神社の方へと急いで飛び込んだ。

 ごぼり、と、水泡が上がる。飛び込む寸前に放り出された鏡はくるくると宙を舞い、最初と同じようにリドルの姿をその鏡面に写した。本物と虚像の、視線が絡み合う。
「……、…」
 でも、最初みたいに、虚像の表情が変わることは無かった。水中に沈む寸前、リドルは自由な片手を宙へと躍らせ、自分を映し出す鏡に向かって指先を伸ばす。小さく、血の気の引いた唇から呪文が紡がれ――――二人の身体が、水中に掻き消えるその瞬間に、鏡は大きな音を立てて砕け散った。


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