幽世


 最初に異変に気付いたのはシイナの方だった。

「……あれ?」
 もうそろそろ、入り込んできた場所が見えて来てもいい筈なのに、一向に入口が見えない。いつまでもいつまでも、薄暗い板張りの廊下が続いている。夕陽が沈んだ後の薄暗さがずっと漂っていて、いつまでも夜の気配が滲み出してこない。じんわりと汗を誘発する生温い風がどこからか吹き付けていた。

「……ねぇシイナ、この神社って、こんなに広かったっけ?」
 少し遅れて、リドルも何かが可笑しいと感じたのか、少し硬い声で傍らのシイナへと視線を向ける。シイナはおもむろに立ち止まって、辺りを見渡す。変わらず、静かな空気が社に流れていたが、風の音に混じって、何か奇妙な音が聞こえているのに気づいた。


 りん。りぃん。


 鈴だ。風に乗って、ほんの僅かにだが、細い鈴の音が流れてきている。リドルとシイナは無言で顔を見合わせ、音の出所を探るように視線を辺りに巡らせた。無意識に息を潜め、足音もなるべく立てないように外を見る。
「……」
 つい、と、リドルが社の入口があるであろう方向を指差して、声を出さずに顎で示す。シイナは頷いて彼の後ろへと付き、背中合わせになるように入口を警戒する。背後のリドルは、同じように社の奥を見つめて耳を澄ませた。


 ……りぃ、ん。


 また、聞こえた。でも、それが何処から聞こえているのか分からない。前から聞こえているような気もするし、後ろからでもあるような気がする。明らかに異常なことだった。どこかで鈴が鳴っているだけだとしたら、普通、音は一方向からしか聞こえない。
 それだけじゃない、陽が落ちてから、もう随分と時間が経っているように感じるのに、いつまでもいつまでも太陽の名残が残った儘だ。昼でも夜でもない微妙な時間帯の儘で、ずっと空間が止まっている。シイナははっとしたように瞳を見開いて、少し震える声で「……黄昏時」と呟く。

「何だって?」
 零れた声を拾って、訝し気にリドルが問いかける。
「……黄昏時、夕暮れ時のことを、そう呼ぶんだ。黄昏時ってのは、言い換えれば"逢魔が時"……魔に逢う、時間」
「っ……それって、つまり」
「……そう。つまり、僕らはまんまと、引き摺りこまれたって訳だろうね」


 黄昏時は、逢魔が時。逢魔が時は、大禍時。
 魔に逢う時間。大いなる禍々しい時。
 シイナがそう告げた途端、暗闇に包まれていた社の柱に取り付けられていた提灯に一斉に火が灯った。唐突な出来事に、揃って驚いたように肩を揺らす。同時に、構えていた杖を向けるも、そこには誰の気配も無かった。シイナは舌打ちして、背中を背後のリドルへと付ける。
「っくそ……!リドル、どうする?」
「……入口に向かっても、恐らく無駄だろうな。元凶を探そう、逃げるより手っ取り早い」
「敵の姿も分からないのに、早計じゃないか?対抗手段はどうするんだ」
「誰も無計画に突っ込むなんて言って無いだろ。そりゃあ、魔法ぶち込んでやれるなら早いけど……とりあえず、状況を探ろう。黙って立ってても仕方ない」
「……そうだな」


 提灯の灯りに照らされて、二人の影が頼りなく揺らめく。シイナは少しだけリドルの方へと視線をやったが、何も言わずに頷いて用心深くまた入口に背を向けて歩き出すリドルの後を追った。
「……暗いな」
 先導するリドルが眉を顰めて小さく零す。完全なる夜ともいえぬ時間帯だが、室内にいる為か、やはり薄暗い。提灯の灯りの所為か、返って対比的に外の明るさが余り室内に入り込まず、薄暗い中をただ進んでいくしかない。辛うじて歩き回るのに支障はないようだが、余り先の方は見えそうになかった。シイナは注意深く辺りを見渡しながら、この神社の全体図を脳裏に思い描いていた。最近余り見ていなかったが、幼い頃はよく来ていただけに、幸いにも参照する記憶はたくさん残っている。
「リドル、とりあえず、本殿へ行こう」
「本殿?」
「神様のいるところ、神社の中心だ」

 基本的にこの神社は回廊で出来ている。所謂寝殿造りをしたこの神社は渡り廊下が非常に長く、元来壁があるはずの位置は空洞で外に直結しているが、おかしなほどに距離の伸びているこの現状では、下手に外に出るのも躊躇われた。何もない、薄闇の中でループさせられるよりは、まだ建物のある場所の方がいい。どうにもならなければ出ることも考えなければならないが、いやに暗く墨で塗り潰したかのような不気味な暗さを保つ外に足を踏み出すのは、リドルもシイナもどうにも気が進まなかった。リドルはシイナの提案に頷いて一歩下がり、先導する役目をシイナに譲った。赤々とした提灯が橙色の光を孕んで頭上で揺れている。どこまでも続く回廊は幾重にも折れ曲がっていて、シイナの記憶にあるよりもより一層入り組んでいる。この頃になると、止まっていた時間が再び動き出したのか、徐々に見える範囲が食い潰されて来てしまっていた。それでも決定的な"夜"は訪れず、ただどちらとも付かない曖昧な夕暮れの中に留まっている。

 本殿はまだ遠い。暗がりの中にいると目が慣れて僅かな光源である程度の範囲まで見えるようになるのが常だが、ずらりと並んだ提灯の所為で眩さに気を取られ、上手く奥を捉えることが出来ない。しばらくそうして歩いていると、リドルが不意にイラついたように舌打ちをして自らを宥めるようにぐしゃりと髪を掻き上げた。
「……嗚呼全く、とんでもないことに巻き込まれたな」
 終わらない回廊、終わらない夕暮れ、不自然な鈴の音。何もかも異常なこの空間への恐れは、もちろんシイナにも根付いている。シイナは一度歩みを止めて、小さく嘆息し朱塗りの柱へと腕を組んで凭れかかった。
「……終わらないな、この回廊」
「どうするシイナ、このまま歩き続けても堂々巡りになるんじゃないか?本殿とやらを目指すのは賛成だけど、辿り着かないんじゃあ意味がない」
「分かってる……でも外はまずい、何だか嫌な感じがするんだ」
「嗚呼、それには同感だ。これはただの勘だけど……あっちに行ったら、まるで戻って来れなくなりそうで」
 明るさの掻き消える寸前の気配が、いやに不安感を掻き立てる。神社から出て暗闇に身を投じたその瞬間――――ぽとりと、つるべ落としみたいに光源が掻き消えて。そしてそのまま、真っ暗闇の中に取り残されてしまいそうな、そんな想像が脳裏を掠めてしょうがない。嗚呼、いやな感じだ。


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