虚鏡


 しばらく二人の間には無音が続いていたが、このまま立ち止まっていてもしょうがない。仕方なしに、どちらともなく足を動かして再び奥を目指し始める。もう何度目か分からない曲がり角を曲がり、何度も似たようなものを見過ぎて最早同じ場所かも分からない回廊を歩いていたところで――――ふと、シイナは歩みを止める。
「どうした?」
 訝し気に首を傾げるリドルを尻目にシイナは数歩先へと少し早足で歩み寄り、屈んで何かを拾い上げた。
「……鏡だ」
 もしやループしているのでは、という懸念すら抱き始めていたが、どうやらそういう訳ではなかったらしい。いやに古ぼけているところからして、これは神具の一種だろうか。鏡面に映る自分の顔をじっと見つめてみても、特に変わったところはない。手入れがしっかりされているのだろうか、きちんとシイナの顔が映っていた。ただの落とし物か、あるいはこの状況を打破するヒントか、はたまた罠か……何にせよ放置していくわけにはいかない品だろう。シイナは拾った鏡を前後ろと確かめ、後ろを振り向いてリドルの方へと向き直った。
「落ちてたんだけど、これ、どういうことだと思う?」
 ゆら、と、リドルにも見えるように鏡面を彼の方へと向けて軽く揺らした。闇の中でリドルの面立ちが鏡の中に写り込む。どうしてこんなところに鏡が、なんて考えて僅かに眉根を寄せたその一瞬。


 鏡の中のリドルが、本物の表情に反してゆらりと口角を吊り上げたのを見て――――そして、その鏡を再びシイナが覗き込んだのを見て、リドルは焦ったように手を伸ばしてシイナの手のひらから古ぼけた鏡を思い切り叩き落とした。
「っそれを見るな……!!」
「えっ……?」
 弾かれた鏡がシイナの手から離れて宙を舞う。空中でくるりと回ってこちらを向いた鏡面がリドルを映して、本物と虚像の視線が絡み合った。派手な音を立てて床に落下したそれは、勢いよく跳ねて廊下から飛び出し暗い闇の中へと飛び出していく。遅れてぽちゃん、と水音が響いた。おそらく、神社の庭に備えられている池の中に落ちたのだろう。突然の行為にばくばくと脈打つ心臓を抑え込みながら、シイナは茫然と鏡を弾いたリドルを見上げた。

「な、なに突然……」
 リドルは何も喋らない。ぱちぱちとその綺麗な黒曜の瞳を瞬かせながら、詰めていた息をゆっくりと吐き出し、そして手のひらを額に当て、大きく吐息を吐き出した。
「……何か、"いた"」
「え……?」
「分からない、でも、僕を見て笑った……あの中には、多分、何かいる」
「っ、……」
 先程まで自分が持っていたただの鏡に得体の知れないものが棲み付いていたと知って、今更ながらに青くなる。シイナの背筋を何か冷たい悪寒が駆けあがる。リドルに弾かれて鏡が飛んで行った先の暗闇を見た。いつの間にか、微睡みみたいな夕暮れは静かに夜に侵食されていて、もうほとんど外の様子など分からない。シイナはリドルと同じようにゆっくりと深呼吸してから、自らを落ち着かせるようにくしゃりと五指で前髪を掻き上げた。
「……悪い、不用心だった」
「いや……ずっと堂々巡りだったからね、何か変化があれば普通は近付く」
 外に飛ばされていったとはいえ、奇怪な何かのいた場所など薄ら寒い。早く行こう、と外を気にしながら急かすリドルに従ってシイナは少し早足で奥へと向かった。

 それでも相変わらず、終わりない回廊は続いている。鏡の場所を過ぎ去る直前、リドルが不意にその場を振り返ってじっと闇を見つめた。通り過ぎて来た回廊は、点いていたはずの提灯の火が掻き消えて完全な真っ暗闇となってしまっている。
「……リドル?」
「嗚呼……ごめん」
 不思議そうにこちらを見るシイナに軽く笑って、リドルは静かに身体を戻し止まっていた足を再び動かす。背後からちりん、と風に掻き消されそうな微かな鈴の音が聞こえる。提灯の炎が揺らめいて、二人の影を不自然なまでに引き延ばした。真っ赤な回廊は未だ終わらない。いつまで歩けばいいのか、どこまで歩けばいいのか、何も分からないままただひたすら歩き続けるという行為は闇の中でじりじりと追い詰められていくような精神状態の中ではあまりに負担で、シイナはしばらくは黙っていたもののそう間を置かず隣を歩くリドルの方へと視線だけ流して、小さく嘆息混じりに呟いた。
「……終わらないな」
「……、…そうだね」
「こういうの本当、嫌いなんだよ僕。確か前もあったよな、ほら、ホグワーツの仕掛け扉の中にうっかり入ってさ、お前と僕の時間がずれて会話も成り立たなくて。ずれてるから一緒にいても出口見つからなくてさ、時間軸がメビウスの輪みたいになってて」
「嗚呼……あったね、そんなことも」
「あの時も結局お前に助けられたんだよな。僕の方が時間遅れてたから、お前が何したのか解んなかったんだけど……そういやあの時どうやって脱出したんだ?」
「嗚呼、それは……っ、待ってシイナ、あれ」
「え?」
 シイナの問いにリドルは答えようとしたが、途中ではっと瞳を見開いて回廊の奥を指差す。つられてそちらへと視線を向けたシイナも驚いたように瞳を見開き「あれ、」と呟くように言葉を落とした。
「……本殿だ」
「辿り着いたの?」
「みたいだ、行こうリドル!」
 本殿の周りは回廊よりも提灯の数が多く、床には行灯も置かれていて闇から浮き上がるように明るい。大きく重厚感のある造りをしているものの、空気はいやに凪いでいて静かだ。何となく気後れした様に足音を殺しながら二人は本殿の中へと足を踏み入れた。


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