本殿


 真っ暗闇の中の本殿は赤く、明るく、奇妙なまでの静けさに包まれていた。先程までの回廊も静かだったが、こことは静けさの種類が違う、とでもいえばいいのか。余計なものの一切を排したかのような潔癖さがある。これではまるで、伝承に伝え聞いていた神域だ。シイナは少しだけここに立ち入ったことを後悔したが、今更後には引けない。それに、先程の鏡のこともある。回廊には未だ少しの提灯は残っているものの、本殿より格段に暗いそちらに後戻りするのはどうにも躊躇われる。離れれば離れるほど暗くなっていくし、あちらに戻ってもどうせまた堂々巡りだ。そう思えば、何が来るにしてもまだ明るい本殿の方がいい。
 とはいえ、視界に映る範囲に特別変わったところはない。賽銭箱の辺りを覗き込んでいるリドルに倣い、シイナも辺りを見渡して何か見つからないかと探ってみるものの、丁寧に片されていて人形の一つも見つからなかった。さてどうするか、とシイナが嘆息していると、賽銭箱の辺りからがたんと大きな音がしてシイナは慌てて振り返る。

「え、ちょ、おま、何してんだ!?」
「この奥、まだ何かある」
「そこは不味いって!そこはいわゆる聖域――――僕らみたいな"穢れ"を持った人間が入ったら……」
「それは、"日常"の話だろ?」
 賽銭箱の奥、祀られた神へと続く部屋の扉を開けながら、リドルが笑う。シイナははっとして彼の瞳を見詰めた。明るい本殿とは対比的な、完全なる闇が扉の奥に広がっている。
「"穢れ"を持った人間は清めてからじゃないと入れない、でも、この世界は違う。ここに入って、動いてる時点で――――僕らはきっと、"ここ"の一部だ」
 闇に溶け込むように彼の身体が、扉の向こうへと踊る。
「ほら、シイナ……来て」
 甘ったるいその声に誘い込まれるように、シイナはリドルの方へと歩み寄る。賽銭箱を通り越し、短い階段を登って、ひらひらと揺れている彼の手へと己のそれを伸ばした。
「……いこう」
 伸ばされたシイナの手を掴んでリドルが引っ張る。その手に導かれるように、シイナは一寸先も見えない闇の中へと足を踏み出した。



 暗闇を歩いている。数歩歩けば押さえていたシイナの手のひらも離れてしまい、明るい本殿へと繋がっていた扉も閉ざされて足元も先導するリドルの姿も何も見えない。ただ一つ、互いを繋ぐ一本の腕だけが歩みのよすがだ。何も見えないのに、先をゆくリドルは迷いない足取りで奥へと歩いていく。
「……リドル、なぁ、何処に行くんだ?」
「本殿だよ」
「そうじゃなくて、ここ、暗いのに……見えるのか?」
「見えるよ、ほら、そこだ」
「どこ?」
「あそこへ行こう」
 あそこ、と言ってリドルが腕を動かすと、衣擦れの音が響いて奥の方がにわかに明るくなった。ぼんやりと発光しているようなそこには、本殿の中であるはずなのに大きな寝殿造りの屋敷が見える。現実離れした光景に思わず瞳を見開く。階(きざはし)と呼ばれる五段の階段がこちらへと伸びていて、その先にはいやに立派な簀の子と階隠間(はしがくしのま)が鎮座していた。いや、だって、そんな。有り得ない。確かに本殿の奥には小さな階段があって、その先に神を祀る場が設けられてはいるものの、こんなに大きな屋敷の体を保っていることは無かった。

「ほら、シイナ……何を怖がってるの。ここが平常とは違うって、最初から分かってたことじゃないか。どうせもうあっちには戻れないよ、もう進むしかない」

 シイナが何かを答える前に、リドルはくんと掴んだ手を引き階段へとシイナを導く。まるで操られるように、引かれるままに不思議な気配を漂わせる屋敷へと歩み寄った。
 階段の前に立つと、そっとリドルが繋いでいた手を離す。不安そうに見上げたシイナに笑って、リドルはそっと手のひらで階隠間を指し示した。
「さぁ、上がって」
 暗闇の奥、不自然に輝くこの社には一体何がいるのだろう。この奥に行かなければならない。そうだ、早く、一番奥まで。


「……」
 ふわふわとした雲を踏み締めるように、シイナは階段を登る。一段、二段。
「登ったら、そのまま、真っ直ぐ進んで」
 三段、四段。
「奥に着物があるから、それを着るんだ。幼い頃に習った、神楽舞は憶えているね」
 五段。
「さぁ――――行くんだ、僕の"花嫁"」

 屋敷の廊下に光が灯る。足元を照らし出す行灯に導かれるように、シイナは夢見心地で暗い屋敷の奥へと歩いていった。


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